竜温「総斥排仏弁」第20回史料精読―「二、示護法用心トハ」(p142)〜「大罪ト可謂」(p144)まで

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二、「護法の用心を示す」とは、およそ仏陀の徒弟たるものは専ら勤めるべきことは護法の一事であるということである。これは未だ仏になる前の仏果を得るために修行をする菩薩の地位にあるものが行う大行であり、我々がまさによるべき『無量寿経』に「厳しく法城を護る」と説かれている。すでに竜樹の『大智度論』には「如来法皇であり菩薩は法臣である」と説かれているならば法臣として法に忠節を尽くさないという道理があろうか。わけても学徒たるものは如来の恩に報いる急務というべきである。かの淨影の『観無量寿経義疏』には、(護法は)極楽往生を得るための行いの一つとしている。わけても近ごろは、世上穏やかでなく、尊王攘夷などと唱えている輩は皆ことごとく、神国神兵の武を輝かさんなどといって、仏法をたいそう嫌い憎むものたちばかりである。だから今、この「護法の用心」ということをもって最後に結び勧めるものとする。
 
しかしながらその「用心」とは何を意味するのかといえば、自らが真宗一宗の教義を学び法門の理を明らかにし、行いをますます堅固なものとし、たとえ一人であってもこの仏法において信仰を生ぜしめようと心を尽くすより他は何もないのである。『中論』にも「寒さを防ぐには皮衣を重ね着る以上に及ぶものはなく、誹謗を止めるには自らが修行する以上に及ぶものはない」としている。今の時代、世上の人々が我が真宗を誹謗することさえ、とどめることはできない。自らの身を慎む以外にないのである。そうであれば他宗のことはしばらく措いておく。他宗にはそれぞれに祖師の定められた規則があるからである。今、我が真宗においては、わけても末世相応の教えであり、身に応じない行いなど一つもなければ、祖師親鸞の教えを固く守るべきである。実にこの今の時代において我が真宗の法はますます光を増し、徳を明らかにあらわさなければならない。

そのわけは、国家の大いなる利益において、他宗と異なるのがこの真宗であるからである。だから今回はますますこの道理を明らかにしなければならない。すでに『無量寿経』では「天下和順し、日月は清明で乱れることなく、風雨もよろしきにかなっている」と説かれている。他の何処にこのような明らかな一文があろうか。だから天照大御神が和国姫に託宣した言葉は不思議なことであろう、この『無量寿経』と同じ言葉なのである。近頃は神道五部書でさえも信じない輩が多いけれどもたとえ五部書が後世によって創られたものであるとしても、この天照大御神の神託を私心でもって造るものがあるだろうか。そうであればこの『無量寿経』の一文は天照大御神の託宣であり、これを基準として真宗の正しい意味を心得るべきである。本より仏法の本意をいえば煩悩の迷いを棄て悟りの世界に入り、苦悩の世を離れて涅槃の境地に入ることにある。もし、あの排仏を唱える輩たちが、常に唱えているような仏法は全て根拠のないことだというような議論が成立してしまえば、阿弥陀仏親鸞は相よって王侯(天皇含む朝廷・幕府)を誑かしたことになる。また仏法は全て虚妄であるというような議論が成立してしまえば、実に仏法は天下無益の法となってしまい、このような広く大きな寺も実に国家の浪費ということになってしまう。だから我等仏弟子たるもの、仏法のためにたとえ身を捨てることがあったとしても、仏説は虚妄ではないということを明らかにしなければならない。因果応報の道理は全てが如来の法則に従い誤りなきものであることをいることを学び明らかにして、」仏法を天下に弘めていかなければならない。もしこの道理がきちんと成立するならばあの排仏を唱える輩たちが仏法を誹謗することは、即、天皇・朝廷・幕府を誹謗する大罪であるといわなければならない。

◎p142ア2
尊王攘夷を唱えるものたちが、神国・神兵の武を輝かそうと仏教を誹謗する
=武に対する対抗とも読めるが、・・・。思想戦を展開するわけでもなし。
cf『無量寿経』p143の頭注「天下和順し、日月清明、風雨時を以てし、災窅起こらず、国富み民安く、兵戈用無し」

◎p143ア7
神道五部書を信じない輩
真宗(竜温)におけるアマテラス、伊勢神宮神道との立ち位置。
・吉見幸和に対する評価
→近代と「江戸」との相違。

◎p144、l2
真宗への誹謗=天子・王侯への誹謗、大罪
→結局竜温にとっての護法とは王法仏法相依による、真宗がいかに王法に奉仕するものであるかを説くことか。
・対抗言説しての王法仏法相依
=「真宗の近代」「国家と宗教」という枠組みの見直し。

文責:石黒