竜温「総斥排仏弁」第21回史料精読―「又、彼排仏ノ徒」(p144)〜最後まで

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【訳文】
(排仏を唱える輩が、仏法を誹謗する行いとは、ただちに天子・王侯を誹謗するのと同じような大罪と言うべきである―報告者注)また、このように排仏を唱える輩が、常日頃から、まるで腰刀のように仏法を誹謗するための言葉として、「仏法は人倫の道を破るものであり、忠孝の道に背いた教えである。また、仏法は子孫を根絶やしにし、ただ自らのために身を修めることを説いた教えであり、万民における家業も廃れさせてしまう教えである」などと言う。しかしながら、現在の我が浄土真宗においては、このような非難を浴びたことは一度としてない。我らが内心において養っているのは、他力信心の行いであり、俗世において専ら勤めているのは、「王法」であり、「仁義礼智信」の五常の道である。その中でも、「仁義礼智信」の五常の道は、正しく仏法への帰依を説いた、「大無量寿経」にも説かれているものであり、釈尊が一代で説いた仏法の教説の中でも、「王法」・「世間教」のことを説いている。このことを説いた文章は多いが、浄土教の大事な経典でもある「大無量寿経」のように、内容が親切な教説は他にはない。「外典」、つまり仏教以外の諸教である、儒教における経書のどの部分において、このような五つの道を並べ説き、しかもその教えを丁寧親切に説いたような、「大無量寿経」に匹敵するような、儒教経書はあるだろうか。いや、ないはずである。もし、儒教が「大無量寿経」のような宝典を抱きながらも、その教えを広め、人々に教化することが出来ないのであれば、儒教は心を用いて学ぶことも必要ない。

「経済問答秘録」十七巻の初めの、僧道の部の冒頭においては、「仁義礼智信五常の道は、人々が守るべき大事なものだが、仏法にはそのような教えはない」と述べる。いまこのことを論破しようではないか。何という無知蒙昧な言葉を吐くのだろうか。五常の道は、我が仏法の教えにもあり、孔子の言葉にはないものである。堯舜や孔孟の教えにおいて、この「仁義礼智信」の五つの道を並べて、これを人の道であると名付けた箇所はあるのか。もしあるならば、いますぐ示したものを持ってきて、こちらに参るがよい。五常の道を連ねて、人道の大綱としたのは、漢代の儒者たちから起こったものであり、宋代の儒者たちにおいて、盛んに論じられてきたものである。つまり「五常」の道は、孔子自身による教えではない。このように、「五常」という名目がないために、他の宗派においては、「五常」とは、「大無量寿経」における教説である「五戒」であろうと思われている。しかしながら、「五戒」は、もともと人を戒めるような教説の内容ではなく、また何をどのように戒めるのか、という作法も説いていない。これを釈尊は、「五善」と名付けたのには深い意味があり、いわゆる「五戒」ではなく、人道とは、たとえ教えそのものが互いに違ったとしても、つまるところ「五常」の道に自ずから合わせるようにするための思し召しがあったからに他ならない。この釈尊における正しい御心に通じているのは、唯一浄土真宗だけである。「経済問答秘録」十八巻には、「嗚呼。もし僧侶が和らいだ心持ちを抱き、仁義の道を志すのであれば、今の世は堯舜による治世にも劣らないような時代だったに違いない。実に嘆かわしいことである」と。また同じく、十九巻には、「出家という行為は、異端の法であり、これを行う者は、すなわち仁義・忠孝の道を学ぶような者ではない」と語る。これらの言葉を聞き、我が浄土真宗の僧侶たちは憤るべきである。

自力による修行を説く、聖道門ならば仕方ないが、仁義・忠孝の道を教え、堯舜の時代にも劣らない教えは、我が浄土真宗にこそある。儒者のような輩が説くものなどは、単に文字の読み書きぐらいなもので、書生のような人だけしか学ばない。こんな儒教にどうして万民を遍く教化することができよう。いや、できない。もし我が浄土真宗の僧侶が、よく仏法を学んで、「大無量寿経」の正しい御心を伝える時があれば、それはまさしく古の聖人君子さえも行うことが難しいとされた、大いなる仁義の道に適うものであるのは、きわめて明白であろう。「論語」には、「堯舜のような聖人でさえもそのことに悩んだくらいである」と述べたのは、仁の道である。さらに、孔子も「仁のことは私にも分からない」と言うほど、仁義の道とは簡単なものではないが、我が浄土真宗においては、文字を知った後にその教えを知るようなものではない。知らないうちに、自然と天道に従い、文字も知らない草奔の人々にさえ、その信心による利益があり、その働きは仁の道にも義の道にも適うようなものである。その利益が広く行き渡っている事実は、どうして儒者などが及ぶところであろうか。いや、到底及べないだろう。そうであるならば、我が浄土真宗の教えが、全国各地に流布することは、国家においても大きな利益であり、つまりこれ以上の利益はないために、どうしてかかる教えに喜んで従わない国王・諸侯がいるだろうか。いや、いない。だからこそ、我ら真宗の末弟である者は、決してこの教えを揺るがせてはいけないのである。私が請い願うところは、浄土真宗の僧侶たちが、篤く信心し、仏の教えに従って修行を行い、この末世である今の世に相応しい大いなる御教えを掲げて、全国各地で浄土真宗の教えが盛んになれば、浄土真宗に対する誹謗の言葉が、たとえ四方から蜂のように起こったとしても、それはまるで蜃気楼が大木を動かし、あるいは虻や蚊が鉄で出来た牛に刺すほどのまやかしになり、取るに足らないものとなろう。これによって、詳しく護法の用心について示して結びとするのは、この通りである。このたびは、特別に忙しい折に、空言同然ともいえることを申し述べたが、その議論には杜撰なところは多々あると思う。いままでの話は、今のような時勢において、護法の契機を少し明らかにしておこうと思ったからに過ぎない。諸君においては、御寛恕を願う次第である。

慶応四年、戌辰秋八月下旬に、たまたま筆写して校閲を行わなかった。文字の誤りをご指摘は、お許しいただきたい。写し間違いの箇所は正しくして、まさしくこの書物の趣旨だけを読み取るべきである。

【担当箇所の論点】
「内心ニ貯ヘルハ往生ノ因行、表テニ専ラ勤メ行フハ、王法仁義礼智信」(p144)
「凡ソ仁義礼智信ノ五ツ、即正依ノ大経ヨリ出ル処ニシテ、一代仏教ノ中ニモ王法世間教ヲ説キ玉フ」(p144)
浄土真宗の教えは、俗世では「王法」を重んじ、それは五常の道と矛盾しないことを説明。

「此ノ正意ヲ弘通シ玉フハ、タヾ我浄土真宗ナリ」(p144〜p145)
「聖道門ハサモアレバアレ、仁義・忠孝ヲ教ヘテ、堯舜ノ世ニ劣ラザシムル教ヘハ、我真宗ニアリ」(p145)
浄土真宗こそ、仁義・忠孝の道を兼ね備えた唯一の教えであることを説く。

真宗ノ末弟タルモノ……希クハ、篤実勤修、如法修行シテ、此末世相応ノ大法ヲ挑ゲ海内ニ盛ンナラシメバ……」(p145)
浄土真宗の教勢を伸ばすことが、今こそ必要であり、それが護法にもなる。


【担当箇所に関するまとめ】
担当箇所においては、まず竜温は、儒教批判の文脈から、そもそも五常の道は、もともと浄土真宗の教えにもあるものであり、儒者たちによる浄土真宗批判は、的外れであることを論じる。また、浄土真宗門徒が基本とすべきものは、他力信心を持ちながらも、俗世間では「王法」を重んじることを説いている。また、護法のためには、より一層の浄土真宗の教勢を伸ばすことが必要であることを結論としている。

【考察】

◎辻善之助の「近世仏教堕落論

江戸時代になって、封建制度の立てられるに伴ひ、宗教界も亦その型に嵌り、更に幕府が耶蘇教禁制の手段として、仏教を利用し、檀家制度を定むるに及んで、仏教は全く形式化した。之と共に本末制度と階級制度とに依って、仏教はいよいよ形式化した。……僧侶は益々貴族的になり、民心は仏教を離れ、排仏論は凄まじく起った。仏教は殆ど麻痺状態に陥り、寺院僧侶は惰性に依って、辛うじて社会上の地位を保つに過ぎなかった。(辻善之助『日本仏教史』第10巻、岩波書店、1955年。p493-p494。)

→近世仏教史研究を規定してきた、近世仏教を「堕落」として捉えるあり方をいかに乗り越えていくか。辻以降の研究史は、かかる問題意識から出発。

◎児玉識による研究

確かに近世仏教は、いずれも幕府の強力な統制下におかれ、本末制・寺檀制の枠にはめられた存在であったため、中世教団のような自由な発展は見られず、各宗とも没個性的教団と化したことは事実である。しかし、法制上、画一化の傾向が強まっても、庶民における信仰形態は、なお各宗派において様々な特質があったのであり、それを考慮しないで一律に近世仏教の性格規定をすることは好ましい方法とは言えない。……江戸時代を通じてどの宗派の寺院も、農民に対して土地緊縛政策をとる幕藩権力の末端機関的役割を担わされたことは事実である。しかし、だからといって、どの宗派も決して民衆統治のためにのみ機能していたわけではなく、各宗それぞれ独自の布教方法で近世社会への定着をはかっていたのである。そしてそれは、多くは寺檀制度を利用してなされたが、しかし、それだけにとどまらず、寺檀制度を無力化し、それとは無関係に進められる場合もあったことを忘れてはならない。したがって、近世仏教は、常に為政者の意に沿う姿勢をとり続けたとは限らず、宗派によっては、逆に為政者からしばしば弾圧されたものもあったのであるが、このような各宗派の特質を十分に考慮しない限り近世仏教の正確な把握はあり得ないはずである。(児玉識『近世真宗の展開過程』、吉川弘文館、1976年。p2-p3)

確かに、近世仏教が中世仏教に比べて思想・機構両面において著しく固定化し、社会に対する影響力を弱め、各宗派ともその独自性を稀薄化したことは論をまたないところであるが、しかし、近世仏教内で各宗を比較した場合、真宗が最も強固に独自の信仰形態を保持し、また民衆生活に最も能動的に機能していたことも事実であって……近世真宗の独自性に関して種々の角度から論じたのも、結局、近世の真宗が、単純に「固定化」・「形骸化」といった概念だけでは説明し尽くせない側面を含んでおり、没個性化の傾向の強かった近世仏教各宗の中では、真宗が個性的・自律的・現実的宗教として民衆社会と直結していたことを明らかにし、それによって、日本の近世民衆も、現在一般に言われているほどには「生きた宗教」から隔絶された生活をしていたのではないことを論証したかったからである。(同、p275-p276)

→児玉氏は、「生きた宗教」として、近世期における浄土真宗の信仰形態を捉える。いわば「堕落」していない信仰を保持し続けた、唯一の仏教教団として、浄土真宗を救い上げる。

◎引野亨輔による「真宗=特殊」論批判

日本近世の宗教史は、辻善之助・近世仏教堕落論という前史に強く規定されつつ展開した。それゆえ、堕落論的理解の克服を目指す辻氏以降の研究は、典型的には真宗=特殊論というかたちを取るに至った。……しかし、堕落した近世宗教世界から「特殊」な真宗を拾い上げていくこれらの研究が、結果的に仏教他宗派や神道民間信仰について堕落論を否定することになり、多様な宗教要素に対する考察の道を閉ざしている側面も否定できない。(引野亨輔『近世宗教世界における普遍と特殊』、法蔵館、2007年。p6-p7。)

→近年の研究動向では、引野氏だけでなく、澤博勝氏による一連の研究(澤博勝『近世の宗教組織と地域社会』、吉川弘文館、1999年。同『近世宗教社会論』、吉川弘文館、2008年)も同様の問題意識を共有。

◎幕末期護法論をどう考えるのか?
柏原祐泉氏による評価。

排仏論は倫理的立場、人間主義的立場、経済的立場、科学的立場、或いは神国観に基づくものなど種々であったが、キリスト教の神学的立場によるものは別として、それらはおおむね近世的時代精神によるものであったから、これを反駁し切ることは不可能であり、したがって究極的には妥協し、各排仏論の論旨を認めたうえで自己主張をする程度に終わっている。したがって、仏教が反倫理的であり、人倫の道を否定するものであるとの指摘に対しては、仏教は世俗倫理と矛盾せず、かえって世俗道徳と一致することを説いて応酬し、また経済的立場で仏教が封建経済を侵蝕するとの経世論家の排仏論に対しては、仏教は王法(国法)遵守を説いて国民教化に資することを指摘して、政治との結合を説き、神国観からの排仏に対しては、旧来の本地垂迹説によって神仏関係を説いたり、須弥山説擁護の関係を説いて防禦につとめた。……要するに排仏論書への反駁は、いわば消極的な自己保全に終わるのみで、清新な時代への発言への提言はほとんどなされなかったといえよう。(柏原祐泉「護法思想と庶民教化」、『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、岩波書店、1973年。p536-p537)

→柏原氏のように、幕末護法論は、総じて「自己保全」に終始した、という研究史的評価は、根強いのが現状。しかしながら、幕末護法論を再考するとき、護法論を主導したのは、浄土真宗の僧侶たちが大半を占めていたことを照らし合わせるならば、近年における「真宗=特殊」論批判という文脈は、どこまで妥当なのか。それを含めて近世期の真宗の存在は、研究史的にもアポリアであり続けているという事態。

近世仏教における真宗の位置づけはその時代を対象とする研究者にとって乗り越えるべき問題として存在すると同様に、近代仏教研究者にとっても真宗はまた問題となっている。(オリオン・クラウタウ「近代仏教と真宗の問題」、『日本思想史学』43号、2011年。)

→このような研究史的な状況を踏まえたうえで、竜温の「総斥排仏弁」を再考する糸口を模索

◎「王法=在俗性」という視点から

内心ニ貯ヘルハ往生ノ因行、表ニ専ラ勤メ行フハ、王法仁義礼智信。(竜温「総斥排仏弁」(1865)。『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、1973年。p144。)

今私ヲ以テ論スレハ、今日コノ布教伝道ヲ真実ニユキ届カシムルヲ以テ、富国強兵ノ真也。表ニハ三条ノ教憲ヲ守  リ、内心ニハ宗意安心ヲ明カニコヽロエシムルトキハ、コレニ過タル富強アルヘカラス。宗意タニ明カナレハ節倹  モオノツカラ行ハレ、堪忍知足、職業モ自ラハケムヘシ。(竜温「十七兼題略弁」(1872)。富国強兵、柏原祐泉  編『真宗史史料集成』第11巻、同朋舎、1975年。p302。)

吾皇国ニ固有ノ大道アリ。即コレ五倫ノ道。ソノ道ノ体ニツイテイヘハ、仁義礼智信。……皇国固有ノ道トイフモ別ノ理アルヘカラス。人体ニ約スレハ五倫ヨリ外ナシ。……不可変トイフハ、変セント願シテモ変セラレヌトイフコト。イカニト文明開化ニ進歩シテモ、コノ道ハカリハ変セラレヌ。ココカ天理ニ願フトコロ。コノ理ヲ明カニシテ説教スヘキコトナリ。然レハ、真宗ノ僧侶ハ、コノ人道ヲヨクコヽロエヨク学ヒテ、懇ニ説教スヘキナリ。(同、道不可変、柏原祐泉編『真宗史史料集成』第11巻、同朋舎、1975年。p303。)

桐原健真氏による指摘。

幕末における護法論は、「かの排仏の徒類の仏法を誹謗するは、すなはち天子・王侯を誹るの大罪と可謂」(竜温『総斥排仏弁』1865年)といった仏者による排仏への反批判としての有価値性の証明が、「俗権による崇敬」という外在的な論拠によってなされるようになる。いわばそれは、己が信ずるところにおける価値の源泉が、仏法そのものから王法へと逆立ちしてしまっているのであり、そこには仏法の超越的な普遍性に対する確信の後退を見ることができるのである。(桐原健真「護法・護国・夷狄」、『日本思想史学』第44号、2012年)

【まとめ】
竜温の護法論は、明治期になると、「コノ道ハカリハ変セラレヌ」と語りながらも、同時に「皇国ニ固有ノ大道」という、新たな「王法」を補完していく論理を導き出していく。また竜温が、「然ルニソノ信ズルモノハ多クハ野民ナリ」(前掲「総斥排仏弁」、p106)と述べるように、真宗が、仏教界において主導的な立場に存している根拠として挙げられる理由の一つとして、真宗における「在俗性」が前提となっていることは、輪読を通してくりかえし議論になる論点として取り上げられたところである。しかしながら、竜温の護法論にみられるように、仏教における「王法=在俗性」を認める議論は、あくまでも浄土真宗教団内部者による語りという性格を有しているため、幕末期仏教界全体が共有していた問題認識であったかどうかは明らかではない。さらに、当該期における他宗派の歴史的動向に関しては、さらなる精査が必要であろう。本報告では、「近代仏教」や「ナショナリズム」をめぐる諸問題を射程に入れることは出来なかったが、竜温のテクストは、その架橋的存在として、様々な示唆を与えてくれるものであることは間違いない。

【参考文献】
オリオン・クラウタウ『近代日本思想としての仏教史学』、法蔵館、2012年。
―――「近代仏教と真宗の問題」、『日本思想史学』43号、2011年。
柏原祐泉「護法思想と庶民教化」、『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、岩波書店、1973年。p533-p556。
桐原健真「護法・護国・夷狄」、『日本思想史学』第44号、2012年。
児玉識『近世真宗の展開過程』、吉川弘文館、1976年。
澤博勝『近世の宗教組織と地域社会』、吉川弘文館、1999年。
―――『近世宗教社会論』、吉川弘文館、2008年。
引野亨輔『近世宗教世界における普遍と特殊』、法蔵館、2007年。

文責:岩根