竜温「総斥排仏弁」第17回史料精読―「又、十九」(p138)〜「慎ズンバアルベカラズ」(p140)

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『経済問答秘録』に対する批判の続き
p138後7行目から
 また、十九巻<三十左>では「住職のいない寺の檀家を遠方の主班寺が管轄することは、民に多くの困難をもたらすものである。だからその寺が三里も離れている場合には、近くの他宗派、日蓮宗真宗以外の宗派にその管轄を任せるべきである。」とし、また十九巻<三十七右>では「寺が村内にあれば、民は朝となく夕となく仏法の法話を聴き親しんで、ますます仏に対する信仰を篤くし、ついには仏のあることは知っていても国家のあることを知らないということになってしまう。だから寺は村からは一理ほど離れたところに建てるべきである。」とし、また十九巻<三十九右>には「日蓮宗は柔和さや堪え忍ぶということを知らない。我意をはる教えだといえる。また村の大小にかかわらず、庄屋に真宗門徒は無用である。真宗に没頭してしまい、時には寺の用事にまで村民を使役する。庄屋を任命する時にはまずその宗旨を確認しなければならない。」としている。これらもまた日蓮宗真宗を並べて非難するものである。十九巻<四十一右>には「僧侶が大罪を犯した場合でも、その罪は個人に帰せられ、寺には累が及ばないため悪行を禁じる法がたたない。もし弟子であっても罪を犯した場合には、その寺の檀家を減らし、真宗日蓮宗であれば檀那寺を他宗派に移し替え、もし死罪にあたる罪を犯した場合には、寺そのものを潰してしまうという命令を下せば、僧侶は自らの行為を慎むことになるであろう。これが真宗の者たちの行為を慎ませる本となる。」としている。また廿巻<五丁左>に至っては「真宗門徒の法として他宗派と異なる点は肉食と妻帯の二つが許されていることのみであり、その他は大乗四十八戒を守るべきである。女色・肉色の二つが他宗派と比べて許されているのであれば、一層その他の戒律は守り慎むべきであるのに、戒律を破る行為は他宗派に勝って多いと見える。他宗派の僧侶も真宗門徒をうらやんで、自ずと堕落してしまっている。真宗の誕生以前には今のような状況はなかったと思われる。」としている。これらは筋の通らない論難ではあるけれども、これらの論難に接して、我々はいよいよ発憤して日々の行いや修学に励まなければならない。このような誹謗をうけるのは僧侶の過失ではあるが、そのことが恐れ多くも宗祖にまでその誹謗が向けられるに至ってしまっている。
 さてその次ぎに、『経済問答秘録』は真宗の法談・法話に関して人々が集まることを非難している。「女が集うことは禁止し、男は五人以上集うことを禁じるべきである。人々が集まることは決してよいことではない。」としている。もしこのような命令が行われるとすれば真宗は廃れてしまい、その教えもまた滅んでしまうことになるであろう。このことは何処までも論破していかなければならない。その他には官職の昇進のこと、本山への申物に関することまで事細かに記載してある。このことに関しては他宗派の僧侶や長老についての入用金についてまで調べてある。これらのことは篤胤の悪口以上にその弊害の大なるものである。
 大体において僧侶の悪事を挙げる場合、その大なるものは驕りと酒と博奕である。だから『経済問答秘録』十九巻<三十一丁>にも「今時の僧侶はたとえ不学務能であっても酒と女と博奕の三悪がなければ高僧であると称してもかまわない」などといっている。廿巻の初めの主旨も同様である。これらのことも田舎などでは博奕の流行しているところもあり、かたく慎まなければならないことである。

●『経済問答秘録』に対する論駁(論駁にはなっていない…)

日蓮宗真宗とを並べることについての批判
→「反体制」とみなされることに対する危惧。
=竜温にとっての「護法」とは何かが改めて問われることになる。
・『秘録』ー経世済民の視点からする仏教批判
真宗側からは有効な反論はできない。
真宗の世俗化、体制化(近世仏教堕落論という視点)
=近世前期における原理的な対決、幕末における民衆宗教の成立、近代における仏教革新運動など。

②竜温における真宗の現状認識
・「堕落」した真宗僧侶、門徒
→具体的な方策はなし。

文責:石黒衛