竜温「総斥排仏弁」第16回精読―「次ニ経済録」(p137)〜「立セズムバアルベカラズ」(p138)

ダウンロード

●現代語訳

次に、『経済録』19巻(16丁左)に、「神孫である帝王が、西戎の仏に淫して、我が祖宗をお忘れになるのは、甚だ料簡違いだ」と言っている。儒輩が仏を謗ることは、別にどうなろうともかまわないのが、この『経済録』の中で記していることは、前後もみなこの意味である。この一言は容赦できない。畏れ多くも一天の君〔天皇のことか――松本〕を呼んで、料簡違いのことを言った無礼、もしあなたが奉仕する国公先君の名を挙げて、このような言葉を吐くならば、きっと罪を得るはずだ。今、あなたが幸いに罪を免れるとはいっても、その罰をついに蒙らない道理があろうか、いやきっと罰があたるだろう。
同書19巻(17丁)には、「思うに王室〔天皇家ことか――松本〕が衰頽するのは、全く仏法から生じることであり、歴史を読めばきっと明確に理解できるはずだ」と言っている。こうしたことは単に一言にしかすぎないとはいっても、彼らの意趣を察すれば、実に嘆かわしいことである。もし、この言葉がひとたび挙げて用いられるようになれば、王公はどうして仏法に帰しなさろうか。仏法はもともと、王室擁護のためにおたてになるのではないか、いやそうだろう。聖武天皇鎮護国家のために比叡山をお開きになった。それになぞらえた今の東叡山ではないか。護国・仁王・般若などの経文、ならびに浄土の無量寿経の明文、これらがもし流布するようになれば、天下は和順し、国が豊かで民が安らかになり、諸天も御加護なさることは明らかだ。しかしながら『経済録』ではこのように、逆のことを言って、盛んに国家の大悪だと談じる。ところが仏者は歴史の事情に詳しくないので、これに反論することもできない。故に努力して学ばなければならない。本居・平田らの神道者はもちろんのこと、このごろの儒者では会沢・塩谷なども、全くこの『経済録』と同じ意味のことを言っている。みな過ぎ去った古のことを取り出してきて、南都東大寺のことや山法師のことを言い、別のところではかの白河院のお言葉として平家物語に出てくる、「加茂川の水、双六の骰、山法師、これらがその御意にかなわないもの」とあるのを挙げる。これがけしからぬことだ。悪態をところどころに挙げて誹っている『日本外史』にもこのことが挙げてある。また別のところでは我が真宗の石山のことや三河三ヵ寺のこと、これらを挙げており、これを今日では破仏の道具としている時節であるので、仏者も歴代のことを知らなければならない。

同じく『経済録』18巻の初めまでは、いろいろなことを取り出してきて、19巻の初めからは、他の宗門の大般若を転読し、すべて誦経・供養などが無益であることを論じて、いよいよ仏法を削って、縮小する法を立てることであるとしている。さらにはまた、八宗のことを連ねて、諸流派の祖師を悪く言うことなどは、平田と全く同じことだ。寺と名付けた梵漢の異名や仏像などのことまで、色々に論じている。
19巻(26丁右)には、「そもそも、最近檀家を立てたのは、宗門を改めるためである。しかしながら数里を隔てて、その見聞を届けることでよいのだろうか。右の意味の考えは、お上からその郷にとりかえる時は、この上もない仁政である」と言っている。これは田舎にあれば、おのおのが自分の村の寺のもとにつけという意味だ。死亡した時に、苦労して骨を折ることもなく手間がかからないという。その次に、「もし同宗でなければ、法華・門徒の他は、どのような宗門に入れてもよい。門徒・法華が多いのは国の害である」という。ここから先のところで、たびたび門徒・法華を並べてあげて嫌っている。真宗の末端で携わる者は、流行の弊害をあらためて、この法を立て直さなければならない。

●要旨

儒者神道者は、排仏の根拠を歴史の中から持ち出してきて論難している。しかし仏者は歴史に明るくないので、これに反論することができない。したがって、仏者も歴史を努力して学ばなければならない。そのうえで、仏法の立て直しをはからなければならない。

文責:松本智也