竜温「総斥排仏弁」第18回史料精読―「猶又」(p140)―「云コヽロナリ」(p141)

ダウンロード

【訳文】
※訳文で、訳として不明瞭だと思われる箇所は下線部を引いた。
(田舎の寺院では、博打が流行している所もある。このような行為は慎まなければならない―報告者注)さらにまた、『経済問答秘録』の中では、僧侶や高位の役人たちをひどく憎んでいる。このような正司による批判は、儒者神道者も同じ気持ちを抱いているため、とりわけこれを防ぎ破邪しなければならない。末世である今の世の中において、仏法が世間一般に安住するためにも、官位・官職の制度(※本文では宦位)は、国にとって大事な宝である。もしも清国のように、官位・官職の制度がない国になってしまえば、民を治めるための法律は自ずと滅んでしまうだろう。『経済問答秘録』十九巻にも、「国に役に立たない人を重用し、役立つ人を軽んじることは、法に反している」と述べている。さらに同じく十九巻の中では、「藩の領主が領主の菩提寺を家老と同じ格にするような行いは、釈迦が行った説法には全くない教えである。中国(※本文では中華)においては、この国のように、僧侶の従者たちがすべて剃髪し、帯刀している人々がいるのは、分を過ぎた行為とみなされており、その意味で、日本における仏法の習わしは比較にすらならないほど酷いものである」と言う。さらに、十九巻では、「僧侶という存在は、本来は乞食である。だとすれば、どうして仏道において、身分・氏姓による貴賎があるのか。いやないはずである」と。僧侶に身分・氏姓に貴賎がないと論じるのは、平田篤胤も全く同じである。このような議論もやはり聞き捨てならない。また、二十巻には、備前藩藩主・池田光政侯による寺院を次々と取り潰した政策の事例を取り上げて、「池田光政侯が行った排仏政策は、世間一般ではなかったために、光政侯の意図は民に対して届きにくいものであった。そうでなければ、また同じようなことが起きるだろう。もし、我国における民の苦しみを救おうと思うのであれば、まず出家した僧侶たちに、本来の仏の道を守らせるより外はない」と述べる。先の十七巻の初めから論じていることが、この言動に至ることで、まさしくこの論こそ、彼の本心を現したものであり、「願わくは、世間において仏法が破滅して欲しい」というのが、正司考祺が抱いている考えなのである。
 同じく二十巻に、「今、もし急に光政侯が行ったような政策を始めようとするならば、僧侶たちは邪まな知恵を働かせて、もし本願寺に取り入って荷担すれば、再び難題となるであろう。光政侯が寺院を取り潰した時、備前国金山寺が占めていた備前国中における寺社総菅の地位を剥奪し、金山寺天台宗に限定して末寺支配を行わせた。金山寺寛永寺に対してこの一件を直訴したが、結果的に金山寺備前国天台宗総菅として移管され、何事もなく落着した。一度落着したが、この一件は再び起こった。このように、寺院の再建自体が起こらない法律を作るためには、何事も緩急をつけながら、少しずつ計画するべきである」と言う。こうして正司は前条で言及した制度を立てることを主張し、「法に背いた僧侶は還俗させなければならない。そうすれば今の僧侶たちに戒律を守る者は少ないため、自然と寺院は廃寺に追い込まれるであろう。三年で廃寺になった場合は、この寺院を潰して、檀家の中でも浄土真宗門徒日蓮宗の信者たちを排除して、彼らを別の宗門の寺院に移させる。また大罪を行った僧侶と共に寺院を廃寺にする場合は、急に取り潰す必要はない。だんだん信者もいなくなり、自然と寺院も滅ぶであろう。これこそ、たいした事も行わずに、成果を出す良策である」と言う。これが結びの総括としての問答である。これを最初の問答と対照させて見るべきである。それを要約すれば、「国家においては仏法は無益であるため、滅ぼさなければならない。しかしながら、仏法は千年間にも及び、今日に至るまで、王侯たちの尊崇を集めているため、仏法を滅ぼすのは、一朝一夕のようにできることではない。しかし仏法をそのまま放置してしまうと、いくら仁政を行って、国を富ませようとしても、再び仏法に虐げられてしまえば、まるで水に鎌を切るように無益なものとなってしまう。だからこそ、仏法はだんだんと自滅させなければならない」というのが、正司考祺の考えである。

【担当箇所の論点】
「清国ナドノ如ク無宦トナラバ…」(140頁5行目)
→竜温における清国に対する認識。役人が統治を行わないという意味で論じているのか?具体的に何を指しているわけではないので、文脈が不明。どの情報に基づいているのか?

「約ルトコロ、国家無益ノ仏法故ニ…」(141頁4行目〜)
→正司考祺の仏教批判の論点を竜温の視点から要約。竜温が論駁している引用箇所は、主に浄土真宗日蓮宗の弾圧政策に言及しているので、浄土真宗側の弾圧に対しての「危機感」を端的に現しているか?
【考察】

日蓮宗における護法思想について
本報告では、精読箇所に即して、江戸後期における日蓮宗の護法思想のあり方を探るために、日宣という学僧が著した『甲府神道問答記』(愛媛大学附属図書館鈴鹿文庫所蔵。書写年不明)や『三道合同図解』(1822年刊。1860年書写本。報告者所蔵本)を中心に見ていく。

◎日宣について
日宣(生年不詳〜1846)。山城国伏見本教寺の住職。日蓮宗に対する排仏論への反駁書などを著して、各地で布教活動を行う。それ以外の詳細な来歴は不明。

◎『甲府神道問答記』の検討
日宣の著作は、近世護法思想を考察する場合、浄土真宗以外の他宗派の僧侶が著した護法思想のテクストとして、着目すべき論点があるため、内容を検討する価値があると思われる。

近年出雲国ヨリ、「満鯨彦」(※本文によれば、「みつはまひこ」という名を当てている)ト申ス邪智心誣曲ノ神道者来リ。講ジテ曰ク、此国日本国ハ、天神七代ヲ始メ地神五代ノ初祖タル天照皇太神ノ国ニテ、八百万神々開キ給フ国也。故ニ神国ト申ス也。然ルニ彼ノ外国ノ儒道、外国ノ仏道渡リ来テ、此国ニ流布シテ、近年彼ノ釈迦カ教へ、国中ニ充満シ、削リマワシノ坊主共カ、在々所々ノ姥嫁ヤ親父ヲ感ジシメ、仏道ニ引入レ、鐘太鼓ヲ打鳴シ、或ハ念仏ヲ申シ、或ハ題目ヲ唱ヘヨト教ヘ、神国ヲ奪ヒ取リ、仏ノ国トシ、神道ヲ捨テサセテ、神ヲ信セス。神国ニ生テ神ノ敵トナル。西瓜頭ノ悪僧共、神国ニ生テ神主ノ恩ヲ報セス。(『甲府神道問答記』、三丁オ―三丁ウ)

→日宣が、甲斐国で布教していた時に、「満鯨彦」という神道者が、日宣が泊まっていた寺に押しかけ、日宣に対して行った反駁。史料によれば、この出来事は1807(文化4年)
頃に起きた事件であることが窺える。「満鯨彦」がいかなる人物かは不詳。しかしながら、この史料で明らかなのは、書物上での論争という形ではなく、実際の出来事として、排仏論を唱える神道者などが、寺院に押しかけて、僧侶たちに法論をめぐる論争を行っていたということは、興味深い。日宣の立場は、日蓮が立てた教えの中に、既に神仏一体論が説かれていることを次のように示す。

日宣答テ曰ク、日蓮大菩薩ノ御本尊ヲ見給ヘ。南無法蓮華経ノ下ニ、天照太神八幡大菩薩ヲ勧請シ給フハ、是レ日蓮所立ノ神道也。天照・八幡ヲ勧請成サレ候ドモ、天照・八幡斗リト申ス義ニ非ズ。天照太神八幡大菩薩、日本ノ宗廟也。此ニ神ヲ勧請シ奉レバ、余ノ八百万神々ハ、引キツヾヒテ御座候ト云フ心也。(同、十五丁ウ−十六丁オ)

→この日宣による神仏一体論の説明の根拠となるのが、吉田神道との関係。

日宣答曰ク。其ノ方ノ水上吉田ノ兼益卿ヨリ免許也。然レドモ吉田ノ配下ニハ附キ申サズ。是レ日蓮所立ノ神道也。(同、十八丁ウ)

日蓮法花宗ノ所立ハ是也。神仏一体ノ本理ヲ一々申シ上ゲ給ヒ、華益卿ヨリ元本宗源唯一神道ノ旨、字訓読様ニ至ルマデ、悉ク伝授之有。(同、十九丁ウ)

→上記のように、吉田神道との関係を強調しながら、日宣は「神仏一体論」を説いている。また大隅和雄による「法華神道」の項目(『国史大辞典』)を見ると、室町後期になり、日蓮宗が教勢拡大のために、吉田神道における神道説を取り込む形で理論化し、近世初期において「法華神道」の教説が確立したという記述がある。基本的に日宣のテクストは、吉田神道神道論に依拠しているが、「吉田ノ配下ニハ附キ申サズ」という文言を見ると、「法華神道」における独自性の立場表明としても読むことが可能だろう。しかしながら、「法華神道」そのものが、吉田神道との関係のなかでどこまで独自なスタンスを持っていたか、という問題については、ここでは即断を控えたい。また報告者が落手した、日宣述・日典解『三道合同図解』(1860年書写本)では、『法蓮華経』をめぐる解釈をめぐり、吉田神道神道論に即しながら、自らの「神儒仏一体」の立場を説明をしている。ただし、報告者の力量もあり、詳しく検討できない。落手本を参加者に見せるので、参照していただきたい。

【まとめ】
柏原祐泉は、日宣について、「このような立論がどこまで排仏論に対抗しうる説得力を持ち得たかは甚だ疑問である」(柏原祐泉「護法思想と庶民強化」、『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、岩波書店、1973年。p540)と言及している。しかし、これまでの護法思想では、浄土真宗の活動がピックアップされてきた。しかしながら、江戸時代の排仏論においては、浄土真宗と同じような論理で批判されていた日蓮宗における動向は、未だにその詳細が分からない部分が多い。そのなかでも日宣のテクストを見ると、吉田神道の問題が大きくクローズアップされていることは、着目されるべき論点を含んでいると思われる。今回の報告は、史料紹介の域をでないが、江戸時代における護法思想のあり方を再考する糸口を模索してみた。参加者の意見を請う次第である。

【参考文献】
日宣『甲府神道問答記』(書写年不詳)(愛媛大学附属図書館鈴鹿文庫所蔵本)
日宣『三道合同図解』(1822年刊。1860年書写)(報告者落手本)
柏原祐泉「護法思想と庶民強化」、『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、岩波書店、1973年。pp533-pp556。
大隅和雄法華神道」、『国史大辞典』、吉川弘文館、1991年。
井上智勝『吉田神道の四百年』、講談社選書メチエ、2013年。

文責:岩根卓史