竜温「総斥排仏弁」―「先、初メニ」(p110)〜「貝原モ排仏家ナリ」(p112)まで

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【訳文】

まず初めに、儒者が仏法を排斥することは、中国では、三武王(※北魏の大武帝北周武帝・唐の武帝)・後周の世宗(※テクストでは高宗)、南宋徽宗・韓欧程朱(※唐の韓愈・宋の欧陽脩・程邕・程頤・朱熹)などがおり、彼らは名高い排仏家である。現在の中国のことに関しては省略する。ところで、我が国に儒学が伝来したのは、仏法伝来よりも早く、「日本書紀」の記事によれば、応神天皇十五年の秋八月のことだと記されている。また一説では、孝霊天皇の頃に、秦から徐福が日本に来て、その時に儒学経書を持ってきたが、広められなかったと言われている。また垂仁天皇の頃になると、漢に使者を派遣し、経書をもらってきたとも言われている。さらに他の一説では、神功皇后経書を持ち帰ったとも言われている。どれも随分と昔の話であるため、詳細は分かっていない。ただ正しく言えるのは、応神天皇の頃に、百済の王から阿直岐という者が派遣された。この者はよく経書を読むことができた。それで、応仁天皇が問いかけて、「あなたより優れた学識のある者はいるのか」とおっしゃられた。阿直岐は、それに答えて、「王仁という者がいます。この者は私よりも優れた者です」と言った。この話により、応神天皇は使者を百済に派遣して、王仁を招いた。王仁は、応神天皇十六年春二月の頃に、「論語」と「千字文」を朝廷に献上した。さらに継体天皇の頃には、さらに百済から儒学を教える「五経博士」が我が国に来てから、儒学は盛んになった。また履仲天皇の頃には、諸国に書記官を置いて、漢字を学習させた。そして天武天皇の頃には、諸国に学校を建てて、儒学を教えるようになった。しかしそれより後の時代になると、戦乱が続く世の中になり、旧王権である朝廷(※テクストでは王室)の権力が衰退するに随い、儒学も衰退し、京都にも大学寮はあったが、光明天皇の頃になると、儒教が奉る聖賢の像も納められていた場所が、念仏堂に変わってしまったと言われている。しかしながら、それが示しているのは、儒学はそのように今にも途切れそうになったとしても、仏法だからこそ、人々は篤く信じる存在であることに他ならないということである。その念仏堂も応仁の乱が起こり、戦火によってすべて灰に帰してしまった。

ところで仏法は、応神天皇から十四代も後のことで、欽明天皇十三年の冬十月に伝来した。それ以来、仏法は次第に盛んになり、身分の貴賎に関係なく、篤く人々の信心を集めたのは、儒教が到底及ぶようなものではない。だからこそ、儒学を修めている者でさえ、仏教を一緒に信じたのであり、まして仏法を誹謗するような行いはほとんどなかったのである。故に朝廷では、仏教経典を「内典」と名づけ、それ以外の教えの経典を「外典」と名づけた。乱世が続くような世の中になると、学問も芸道も廃れたが、仏法とはもともと俗世から離れて、教えを修めるものであるため、学問で知られている者たちも、すべて僧侶として出家した。その後の世になると、儒者と呼ばれる者たちは、市井に暮らし、医者と同じように剃髪をして、文字・文章を記憶し暗誦するだけで、それを理解も実践もせず、ただ人々に素読や詩作を教える程度の取るに足らない者たちのことである。

そのようなときに、徳川の治世となり、天下は泰平し、惧れ多くも東照神君徳川家康公が、我が国を治めてからは、学問も他の芸道も大変盛んになり、大きく文明と文化が開けた世の中となった。こうして庶民の出自を持つ者でも、「大儒先生」と呼ばれる者が、次々と現れた。その最初が藤原惺窩である。この者は元和五(1619)年に亡くなった。そのあとに出てきたのが、羅山こと林道春である(※本報告では林羅山として呼称を統一する)。この林羅山という者は、京都の西本願寺門徒の家に出自を持つ者である。新町錦小路に「順正寺」という寺がある。その町に林又三郎、後に林信勝と名乗った者がいた。彼こそ林羅山である。林羅山は、幼少の頃から、学問を志し、『史記』を読みたいと思ったが、書物蔵には「史記」がなく、家の隅にある蔵にあることを聞き、一巻ずつ借りてきて、五十日で全て写し終えたという。この写本が、いま林家の家宝となっているということである。この林羅山こそ、排仏論の端緒となった者である。羅山によれば、「わたしは長年にわたり、僧侶によって抑えられ、また彼らに欺かれてきた」と述べている。羅山は、『本朝神社考』を著し、その自序に、「わたしが所願するのは、世の人々が我が国の神々を崇めるようになり、仏法を排斥してくれることである」と述べ、さらに「そうすれば我が国は古に復ることが出来るだろう」とも記している。『本朝神社考』には、このように所々で仏法を誹謗している箇所がある。その羅山が生涯に渡る著作を集めた『羅山文集』には、「蘇馬子弁」という著作がある。その著作で、聖徳太子を誹謗したのが、その始まりである。だから、やや昔に起こった排仏論の端緒となったのは、この林羅山にほかならない。次に現れたのは、山崎闇斎である。彼も羅山が排仏論を唱えた頃に現れた者である。その後は、荻生徂徠・朝山意林庵・白井宗囚・熊沢蕃山・太宰春台など数多くいるが、一人ずつ列挙すれば、枚挙に暇がないので、省略する。また肥後国には井沢蟠竜という者がおり、彼は『広益俗説弁』という書物を著した。彼は林羅山を慕い、聖徳太子のことを大きく誹謗した。それによれば、「物部守屋は国に忠義を果たした者であり、守屋のことを謀反人などと非難するのは、国史についての見識が暗いと言わざるを得ない」と言っている。また貝原益軒なども、一見すれば穏やかな儒者のように見えるが、貝原益軒が著した『和事始』という著作の最後には、仏法伝来のことを取り上げ、たいそう仏法を憎んでいる。だから、貝原益軒も排仏家である。

【輪読箇所の論点】
「王室ノ衰ルニ随テ儒学モ衰エ…」(110頁16行目)

→ 儒学の衰退を、朝廷の権威の衰退と重ねる。「王室」という語から読み取れるのは、「旧王権としての朝廷」という位置づけ。

「サテ仏法ハ……貴賎共ニ尊信シタルコト、儒ノ及ブ処ニ非ズ」(111頁1行目〜2行目)
「仏法ハモト世ヲ遁テ修スルモノ故ニ、学問ノ権モミナ僧ニ帰シタルモノ。ソノ後、儒者ト云ハルヽモノハ民間ニアリ……所謂記誦詞章ニ止リ、人ニ素読ヲ教へ、詩作ナドヲ教ユル計ノモノ」(111頁3行目〜6行目)

→ 仏教の依拠するところとして、身分を越えた人々に広く信心を集めていることを強調。また、続く箇所では、儒者の位置づけが、市井の人々に教えるだけのとるに足らない存在として、対比されており、仏教の正当性を、「俗世」とは切り離されている脱俗的性格に求める。

「然ルニ、コノ道春ヨリシテ、排仏ノ手初ヲ致シタル。……聖徳太子ヲ謗リ初メタガコレナリ。然レバ、中古排仏ノ手初ハコノ羅山」(111頁13行〜16行)

→ 儒者の排仏論の端緒となる人物として林羅山を取り上げ、林羅山批判を行う。羅山の排仏論の問題点として、聖徳太子をめぐる評価に力点が置かれている。それが儒者における排仏論を反駁する根拠となっていることも、輪読箇所からは確認できる。

→輪読箇所の論点をまとめれば、仏教と儒学を対比し、その相違について、朝廷の権威とその衰退と重ね合わせながら論じる。仏教の優位性を「聖としての仏教/俗としての儒学」と規定し、仏教の正当性に言及している。また、「王室」という語に着目すれば、「旧王権としての朝廷」という意味合いも含むものであり、幕末維新期における学僧が、朝廷の存在をどのように捉えていたのかも伺わせている。輪読箇所の後半は、儒者における排仏論の歴史を語る箇所に入り、その中でも林羅山への反駁を試みている。その主な論点として、聖徳太子をめぐる評価が争点となっている。


【考察の主眼】
「総斥排仏弁」における羅山批判

彼道春生涯ニ作ヲ集メタル羅山文集ニ、蘇馬子弁ト云アリ。聖徳太子ヲ誹リ初メタガコレナリ。然レバ、中古排仏ノ手初ハコノ羅山。*1

→竜温による林羅山批判。そのなかでも羅山による聖徳太子批判を反駁。

→曽根原理氏による研究。中世にかけて「仏教の篤信者であり同時に理想的治者」としての聖徳太子像が形成されると同時に、その一方で、「近世における儒学者国学者たちは、しばしば太子を批判することで排仏を論じ」たのは、それが「仏教教団が国家の中で果たした役割や位置に関わる、国家と宗教の関係を反映したもの」であると指摘。*2

→江戸時代における儒仏論争において、聖徳太子の位置付けが焦点となるのは、聖徳太子が、治者と教化の関係性をめぐる象徴的存在であったからと思われる。ここでは、林羅山(1583−1657)による聖徳太子の位置づけを中心に、その仏教批判について考察。


林羅山における仏教批判】

羅山による仏教批判が行われているテクストとしては、管見の限りでは、『羅山文集』に所収されている「蘇馬子弁」。『本朝神社考』の「厩戸皇子」の記事。松永貞徳との論争書である『儒仏問答』などに見られる。これらのテクストに即しながら、羅山の仏教批判について確認。

「本朝神社考」の序文。

夫れ本朝は神国なり。神武帝天に継ぎ極を建てし已来、相続き相承け、皇緒絶へず。王道惟に弘まる。是れ我が天神の授くる所の道なり。……仏氏は隙に乗じて、彼の西天の法を移し、吾が東域の俗は変ず。王道既に衰へ、神道漸く廃れる 。*3

→ 羅山は、「王道=神道」と規定し、仏教伝来によって、風俗が変容したことを批判。林羅山は、仏教とは「夫れ仏は一黠胡にして、而して夷狄の法なり」*4 という。羅山の仏教批判を分析した先行研究では、韓愈の排仏論を前提にしていることがいわれている。*5安易な比較は控えるが、羅山は韓愈の文脈を置き換え、「夷狄の法」を広めた存在として、聖徳太子を批判する。

あゝ太子何そ後代をいふや。其身已に夷狄の法をこのミて。身ハ日本の王子といへとも。心ハ天竺の夷狄也。*6

羅山は聖徳太子を「夷狄の法」を体現した人物として誹謗するが、その理由として、仏教が人倫を否定していることを挙げ、以下のように述べる。

余惟ふにその太子の言と耶蘇の論は、共に一偏に拘りその中正を失う者なり。我が身体髮膚は、父母の遺体なり。我無ければ則ち父母無く、また祖先無し。我有れば則ち以て遠きを追うべく、以て父母に善を揚ぐべし。豈に草木と同じく朽ち、禽獣と共に斉しく斃れんとせんや。宜なるかな。後無きを不孝と為すことを 。*7

又本朝の古へ。そか馬子ハ。稲目か子なり。……馬子も又八耳太子と。力を勠せて。仏事をゝこす。……馬子病に。をかされて。死ぬへく見ヘけれハ。太子出家をすゝめて。具戒を授く。……馬子ハ。反逆の志を遂。楚英ハ。反逆の志を遂げず事ハ。ことなれとも。其志ハことならず。是又好仏の罪にあらすや。*8

羅山は、聖徳太子が後継を持たなかったこと、そして崇峻天皇蘇我馬子と共謀して殺したことを批判し、それが「人倫」に背いた行為として捉える。羅山は、仏教における人倫否定するような方向性を、さらにキリスト教と同一視することにより、「仏教=夷狄の法」とし、「好仏の罪」の体現者としての聖徳太子像を提示する。

嗚呼、馬子の君を弑する、誠に仏の罪なり。もし馬子に夫れ五典を知らしめば、則ち豈に此の如くならんや。人と為して、五典を知らざるは、人に非ざるなり。……馬子啻に駸駸として、その中に入るのみ非ず、その上を犯し乱を好む事に至りては、則ち仏法の敝たるや大なり。*9

太子のたゞに。馬子をころし給はぬまでこそあれ。其後かれに出家をすゝめ。具戒をさつけ給ふを見れは。太子も馬子か徒党なる事明白也。何そ天皇にうすく。馬子にあつきや。此亦好仏の罪に非すや。*10

羅山における仏教批判は、『本朝神社考』の「遂に神社仏寺を混雑して疑わず。巫祝、沙門同じく住して共に居らしめるに至る。嗚呼、神在りて亡きがごとし」*11 という文言からも伺えるように、神仏一致論も否定していく。

【まとめ―今後の論点と疑問】
 
本報告では、輪読箇所で林羅山の仏教批判について触れていたこともあり、その概要を示した。林羅山の仏教批判への反発は、先に言及した竜温の言葉に見られるように、幕末期まで尾を引いたものであった。主なものを挙げれば、黄檗宗の学僧である竜渓性潜(1603−1670)が著した『弁正録』や、同じく黄檗宗の潮音道海(1628−1695)による『扶桑護仏神論』、臨済宗白隠慧鶴(1685−1768)の『読神社考弁疑』などの批判書が刊行されている。また、林羅山と松永貞徳(1571−1654)との往復書簡を加工して刊行した『儒仏問答』も、同じ背景をもったテクストだと考えられる。批判書の検討については、時間や史料アクセスの問題もあり、また力量を伴う作業であるため、自身の力量と限界を感じざるをえない。最後に読書会における輪読を通じて提出された議論も加味しながら、今後の課題として提示し、最低限の責務を果たしたい。松永貞徳は、儒仏の関係性について、以下のように言及している。

震旦の聖賢。皆天竺の仏の。化現なる事を。しらぬによりて。経文と。儒書と符号せしことを。のへきかする斗也。それをからにも。なま合点なる者共。別々の見をゝこして。其そしりをなせり。*12

松永貞徳は、儒教における聖人は、仏の生まれ変わりであり、儒教と仏教の教えに差異がなく、「仏法と。儒道とハ。水波の隔なるを。末の世の儒者。仏法の盛なるを嫉て。異端とさす也」*13 ことを説く。また、竜渓性潜も、「神社仏寺混雑し、巫祝沙門同住するは、その道の合する証なり。しからざれば霊神あにこれを容れんや」*14 と述べていることからも、儒仏一致論を貫くことで、反批判を展開させている。

輪読を通じて提出された課題として、「議論としての質自体が、時代性を帯びており、江戸前期と幕末期では批判も異なるのではないか」という疑問が提出されていた。竜温は初回の輪読で確認したが、儒仏神は教えとして「同一体」であると断っているものの、やはり儒教を「大敵」と看做しており、テクスト最後の箇所では、「仁義・忠孝ヲ教ヘテ、尭舜ノ世ニ劣ラザラシムル教ヘハ、我真宗ニアリ。彼儒者ナドノ教ユル処ハ、文字アルモノ、所生(ママ)ノタグヒノミ。何ゾ普ク万民ニ施スコトヲエンヤ」*15 と述べており、むしろ儒教と仏教との相違性を強調している点が確認できる。これは改めて輪読を通じて考えるべき課題だが、明らかに江戸前期の議論とは、質が異なるものだといえる。言い換えれば、江戸前期の排仏論批判は、三教一致論に依拠しているが、幕末期の護法思想は、その相違性こそがむしろ正当化の論拠として提示されている点は考慮しなければならない。それがいかなるレトリックで構造化されているのかは、検討すべき課題であると思われるが、問題提示としては不十分であるため、参加者の意見を請う次第である。

【参考文献】

安蘇谷正彦「林羅山神道思想形成について―神道志向の要因をめぐって」、『神道宗教』156号、1994年。
大桑斉『日本仏教の近世』、法蔵館、2003年。
柏原裕泉「近世の排仏思想」、『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、岩波書店、1973年。pp517-pp532。
―――「護法思想と庶民教化」、『日本思想大系57 近世仏教の思想』所収、岩波書店、1973年。pp533-pp556。
木場貴俊「林羅山『本朝神社考』「僧正谷」を読み解く」、『書物・出版と社会変容』5号、2008年。
龔頴「林羅山排仏論の一考察―朱子・韓愈との比較を通して」、『日本思想史学』30号、1998年。
曽根原理『神君家康の誕生―東照宮と権現様』、吉川弘文館、2008年。
―――「山王神道の近世的展開」、『仏教文学』20号、1996年。
高橋文博『近世の死生観―徳川前期儒教と仏教』、ぺりかん社、1996年。
―――「儒教と仏教の論争」、今井淳・小澤富夫編『日本思想論争史』所収、ぺりかん社、1979年。pp149-pp173。
高橋美由紀「林羅山神道思想」、『季刊日本思想史』5号、1977年。
前田一郎「『儒仏問答』の成立・構造・展開」、大桑斉・前田一郎編『羅山・貞徳『儒仏問答』註解と研究』所収、ぺりかん社、2006年。pp297-pp339。
前田勉『近世神道国学』、ぺりかん社、2002年。
本村昌文「林羅山の仏教批判―死生観を中心として」、『日本思想史学』33号、2001年。
矢崎浩之「潮音道海の羅山批判とその意図―『扶桑護仏神論』を中心に」、『東洋の思想と宗教』27号、2010年。
―――「林羅山研究史小論」、菅原信海編『神仏習合思想の展開』所収、汲古書院、1996年。pp527-pp533。

文責:岩根卓史

*1:竜温「総斥排仏弁」、『日本思想大系57近世仏教の思想』、岩波書店、1973年。111頁。

*2:曽根原理「山王神道の近世的展開」、『仏教文学』20号、1996年。

*3:林羅山「本朝神社考」序文、鷲尾順敬編『日本闘諍史料』第一巻所収、名著刊行会、p365。原漢文。書き下しは報告者による。

*4:林羅山「本朝神社考」上之二、「日吉」、p419。

*5:龔頴「林羅山排仏論の一考察―朱子・韓愈との比較を通して」、『日本思想史学』30号、1998年を参照。

*6:「儒仏問答」、聖徳太子論、大桑斉・前田一郎編『羅山・貞徳「儒仏問答」註釈と研究』所収、ぺりかん社、2006年、p107

*7:林羅山「本朝神社考」下之五巻、「厩戸皇子」、同、p156。

*8:「儒仏問答」、崇峻弑逆論、p164-p165

*9:林羅山「蘇馬子弁」、「林羅山文集」巻二十六、京都史蹟会編『林羅山文集』上巻所収、ぺりかん社、1979年。p293。原漢文。書き下しは報告者。

*10:同、p166

*11:同。

*12:「儒仏問答」、儒仏大木葛藤論、p101

*13:「儒仏問答」、仏儒違目事、p190

*14:竜渓性潜「弁正録」、『日本闘諍史料』第一巻、p360。原漢文。書き下しは報告者。

*15: 竜温「総斥排仏弁」、p145