宮本誉士『御歌所と国学者』

御歌所と国学者 (久伊豆神社小教院叢書)

御歌所と国学者 (久伊豆神社小教院叢書)

レジュメはリンクからダウンロードできます。

1.本報告の目的

本書は、主に「旧派和歌」と呼称され、保守的とみなされがちであった御歌所で活動していた歌人たちに光を当てることで、従来ではみすごされてきた国学者の系譜を再評価した著作である。

事実、研究史の中でも御歌所の歌人たちの研究は乏しい。それには様々な背景が考えられる。文学史においては、正岡子規与謝野鉄幹などが「旧派」として位置付けたこと。また、国学研究に限っても、頂点的な意味合いを持つ国学者の膨大な研究とは対照的に、明治期における国学者が、いかなる活動をしたのか、ということは十分に注意されてこなかったことも、やはり考慮に入れる必要がある。本報告では、本書を検討することで、今後の研究課題としてなにが残されているのか、ということを考えてみたい。

2.本書の要約

〈研究の視角〉(序章)
「新派和歌」派による御歌所歌人批判。しかし、戦前の研究を含めても御歌所の実態を捉えようとする試みは乏しい。単なる前史的な意味合いではなく、彼らは「法整備」や「古典の普及」などに参与し、様々な活動に関わったという意味でも検討される余地がある。本書は御歌所で活躍した国学者を素材にして、「明治国学」における思想の一端を把握しようとする試み。

〈八田知紀の来歴と思想〉(第一章・第二章)

八田知紀の来歴
→1799(寛政11)年に薩摩藩士の子として生まれる。1825(文政8)年に京都に遊学。月次御会などに参加し、賀茂季鷹・城戸千楯らと交流。翌年に香川景樹の門下生となる。弘化年間には、矢野玄道などと交流し、薩摩国学の中心的人物となる一方で、歌人としての地位も高める。彼の広範な人脈こそが、御歌所の系譜に連なると評価。
→また八田知紀の思想も検討。おもに「理」と「造化神」の解釈。八田は、「理」を「大理」と「小理」に分ける。「大理」とは、「理外の理」であり、それこそ「神隋の道」であると解釈。また、歌は「天賦自然の道」としての「大理」としての「調べ」があるがゆえに重視する見解を示す。また、「大理に依る造化神の道」を見出し、八田は「天御中主」を祭神の中心に置くことを主張。当時の時勢などを考慮に入れるなら、祭神における論争が過熱しており、また対外関係などもあり、中和を図ったと本書は言及。

〈高崎正風の人脈と思想〉(第三章)

正岡子規与謝野鉄幹などにより、否定的なイメージが多い高崎正風の来歴を検討。従来の研究でも来歴に言及することは乏しい。本章では薩摩国学との関わりから、薩摩藩内において、ブレーン的存在にいたこと。明治期に入ると、「かなのくわい」に参加し、国語教育や唱歌教育にも力に入れていたことが検討される。

〈福羽美静と近藤芳樹〉(第四章)

御歌所の前身となる「歌道御用掛」・「皇学御用掛」・「文学御用掛」の動向を把握する。御歌所の制度的な前身に関わった人物として、福羽美静(1831−1907)と近藤芳樹(1801−1880)の来歴を追う。
福羽美静・・・津和野藩士の子として生まれる。1853(嘉永6)年に京都に上り、大国隆正の下で学ぶ。文久年間には諸藩有志と交わり、国事に奔走。明治期に神祇政策にも関与。1871(明治4)年に「文学御用掛」に任命。その後も様々な職歴を経ながら、とりわけ、御歌会の制度確立に尽力。
近藤芳樹・・・1801(享和元)年に周防国に生まれる。1823(文政7)年に、本居大平に入門。また藤貞幹門下の山田以文に有職故実を学ぶ。天保年間に、藩の祭礼政策に関与。明治期に入り、「歌道御用掛」に任命。御歌所の制度確立に積極的に関わる。
→福羽と近藤は、「文学御用掛」などの諸事を通して、文教政策にも従事し、教育書などを編纂。本章では、「文学御用掛」の活動の一端を把握する。

〈御歌所の詠進制度〉(第五章)
歌会始と詠進制度の整備。1873(明治6)年。下澤保躬による建白書の提出。「官員華士族平民之無差別」という意見を提出。詠進制度を拡大するために、新聞などの媒体を通じて、詠進を奨励。また、大日本歌道奨励会の設置により、日清戦後の詠歌奨励の動向を分析。

〈高崎正風と本居豊頴の歌論〉(第六章)

「自我の詩」(与謝野鉄幹)や正岡子規による御歌所への批判。しかし、批判された側の御歌所の歌論は未検討の部分が多い。
高崎は「古今集序」を重視し、「歌ハ蓋、理論に会フヘキニアラス」とし、「調」と「情」を優先。高崎の歌論には「歌は人情の学問」という考え方が通底しており、当時の批判的論調が多かった歌風について、終始擁護を務める。
本居豊頴の歌論。豊頴は「上古」を重視。しかし、歌集の理想は高崎と同じく古今集を重視。また、「詞の学」としての歌学を重視する姿勢。「極端に走らない」歌風であることを検討。

〈御歌所の歌人たち〉(第七章)

御歌所に在籍した歌人たちの動向を追う。その代表的歌人として小出粲(1833−1908)と阪正臣(1855−1931)を取り上げる。本章は来歴の検討が主眼。
小出粲・・・1833(天保14)年に石見浜田藩士の子として生まれる。小出が活躍するのは、明治に入ってから。山県有朋の和歌の師となる。佐佐木信綱主宰の歌壇誌『心の華』などに寄稿し、また山県が主宰となる常磐会の撰者となり、御歌所改革に務める。
阪正臣・・・名古屋に生まれる。明治期に平田鉄胤の門下となる。教導職や神宮での教員などを歴任したあと、高崎正風と面識をもつ。主に教育活動に力を注ぎ、華族への教育に重きを置く。

〈高崎正風と心学普及活動〉(第八章)

彰善会・一徳会の活動から、高崎正風が参与した心学道話の普及活動を分析。彰善会は経済的理由から撤退。新たに設立したのが一徳会。「明倫舎」を中心とした関西心学の流れを再組織化する。心学講舎とは異なる心学運動を形成しようとする意図。一徳会は、西村茂樹が設立した日本斯道会とともに、日露戦後の教化政策として、教育勅語の拡充を試みたことを分析。

〈結語〉(終章)

本書のまとめ。

3.論点及び疑問点

〈論点〉

本書は、御歌所に在籍していた国学者を俎上にすることで、「低調」ともいえる明治国学への視点を考えるうえで、彼らが単に歌人という範囲を越えて、様々な活動にも参与していく姿が提示されている。本書における問題関心は、もちろん国学史研究における明治国学の位置付けに置かれているが、もちろん、文学研究などにも関わってくるだろう。その意味で本書は豊富な事例の考察を通して、低調な明治国学研究の再検討や、近代短歌の前史的な位置づけとして、御歌所を位置付ける従来の研究に対する見直しを迫っているといえる。

〈疑問点〉

報告者の関心も、いままで香川景樹の歌論などを修士論文などで検討したこともあり、その意味で本書の論点と重なる部分がある。しかし、歌論の検討に関しては、本書の研究では、従来の見解を踏襲している点もあり、八田知紀や高崎正風の歌論を香川景樹との「師弟関係」という括りを前提にしており、それだけを判断基準として据えているようにも思える。ただし本書が提示されている論点自体は興味深い。報告者としても自らの研究として今後深めるべき課題であろう。

(文責:岩根卓史)