中村春作「近世琉球と朱子学」

江戸儒学の中庸注釈 (東アジア海域叢書)

江戸儒学の中庸注釈 (東アジア海域叢書)

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(『江戸儒学の中庸注釈』所収、汲古書院、2012年。pp115〜pp136。)

【要約】
→はじめに。東恩納寛惇(1882―1963)が紹介した、北京国子監の儒者であった、潘相が書き残した、琉球王府派遣留学生(官生)たちの記録『入学見聞録』からの言及。
→彼らが、無点の唐本に、毛利貞斎『四書俚言鈔』を参照にしながら、国子監の講義に参加していたこと。また、毛利貞斎の書物は、和刻本であり、かつ初心者向けの解説書であったこと。同様に伊波普猶(1876−1947)も、沖縄県立図書館の調査に際して、唐本の乏しさに慨嘆。
→「そこに示されるのは、冊封関係から脱した江戸期日本の儒学の盛況に比して、現実に冊封関係の中に在った近世琉球における儒学の存在感の乏しさの発見」(p117)。かかる導入部を経て、近世琉球における儒学思想、朱子学の展開が実際にはどのようなものか、を考察するのが、本論文の主眼。

→近世琉球における儒学思想の定着過程について。琉球における朱子学の本格的な流入は、「薩摩入り」(1609)以後のこと。しかし、それ以前より、首里(王府)周辺には、五山禅僧たちが常住しており、彼らが持ち込んだ系統と、久米村に集住した、中国南方からの帰化人集団が保持してきた儒学の二つの系統が存在。「学問」としての朱子学は、「薩摩入り」を契機にして、大きく変容した部分が大きいと、本論文は指摘。王府の系統とは異にしていた久米村の儒学も、中国音直読法から、薩南学派の訓点方法である、「文之点」に転換。かかる近世琉球における儒学の変容に関わったのが、泊如竹(1570−1655)。如竹は、桂庵玄樹・文之玄昌の直系にあたる儒者であり、王府に三年間滞在し、「文之点」を普及。このことを契機に、琉球の「士人」たちは、「文之点」による四書集注を通して、朱子学を理解することになる。

→〈教諭〉社会としての琉球程順則(1663−1735)を介した『六諭衍義』の流布。この出来事は、「民間の人人にとってふさわしい教化の言語とは何か」(p124)という、いわば「東アジア法文化」(深谷克己)に投げかけた波紋として考えることが出来る。それは清帝国が新たな国家道徳として、孝道思想を再編し、〈教諭〉という形で民衆世界に流布させたという意味において、東アジアにおける民衆統治のあり方とも関わる問題。その中継点に琉球が存在していたことの重要性。

→蔡温(1682−1762)の政治実践。本論文では、「蔡温の儒学は、経書解釈の差を競うものではなく、むしろ現実の琉球に置かれた状況に即したものだったかであり、蔡温の儒学思想は、その政治論、治山論、風水論等々、現実的社会問題と一連のものとして、その真価が問われるべきものと考える」(p130)と、その立場を明確にしたうえで、蔡温における儒学思想の「実学」的側面を考察。そのうえで、蔡温の儒学を、「社会教化の学としての、朱子学の一展開」(p132)と理解するべき視点を提示。

→結論。本論文では、近世琉球儒学の展開を考察し、従来では経書解釈や、世界認識のあり方として言及されてきた朱子学の思想性の問題に関して、さらに視点を広げ、「民衆の生活にまで直に影響したものとしての朱子学的世界の拡散」(p132)も射程に入れた考察が必要だろうとして、本論文を閉じている。

【まとめ】
時間的制約のため、論点の整理のみ。本論文では、近世琉球儒学と、その朱子学の展開を、〈教諭〉社会の実現、政治的実践という側面に着目したことが大きな論点。薩摩藩との関係も考慮に入れ、近世琉球儒学の展開を追っている。琉球王府と久米村との朱子学と変容過程の問題。また、本論文が言及しているように、蔡温における『中庸』への関心も、江戸期の儒者が議論を交わしたような、「性―道―教」の問題ではなく、政治を論じた箇所に向けられていたことも重要な指摘であり、近世琉球儒学の変容と展開が、明清交代を契機とした、東アジア世界における政治的再編と無縁ではないことを示しているのではなかろうか?

文責:岩根卓史