竜温「総斥排仏弁」第15回精読―「経済問答秘録十七」(p135)〜「挫カズンバアルベカラズ」(p136)

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●現代語訳

※□は、報告者が訳出に疑問を抱いた箇所を示す。

『経済問答秘録』一七巻(二三丁左)に、「豊臣秀吉公が大寺院の寺領を剥奪したことは、おめぐみを残したのではないのか。この質問に答えるなら、かかる豊臣公の所業は、最上の善としなければならない。しかしながら、同時に豊臣公は、かかる所業に比肩される一つの害毒をお残しになった。東本願寺教団を設立したことは、後世の天下の民害になったこと、どれほどであろうか。云々。」とある。この一条は、真に聞き捨てならない記載である。豊臣公は西本願寺門主に弟の准如を抜擢なさったというのに、正司考祺がここで東と言っていることは、どういうことであろうか。東というのが、顕如嫡流たる我が東本願寺を指すことは当然である。しかもこのことは、恐れ多くも神祖徳川家康公の台命によるものである。そうであるにも拘わらず、正司考祺が豊臣公と言っていることは、彼の誤りであろうか、しかし私が思うに、種々の些細なことまで調べ上げる彼が、このような大きな間違いを犯すとは考えられない。おそらくは、今の時代をお築きになった方の御名を出せば、思いのままに批判することが叶わず、また民害を残したなどと言うことができないため、確信犯的に豊臣公の名前を出したのではないだろうか。徳川家康公の台命によって、東西に分かれたといっても、別に寺院を建立なさった訳ではない。しかしながら、正司考祺は天下の民害などと言っている。かような過言は、憎んでも憎みきれない。彼のその真意は、神祖徳川家康公を批判することにあるのではないだろうか。恐れ多くも神君徳川家康公の御所業に対して、怨恨の念を抱く大罪人を、糾弾しなければならない。『経済問答秘録』一八巻(五丁右)に、「日本中に、寺院の数は約三十二万あり、そのなかでも真宗は二十余万に及ぶと聞いている。一つの寺院に三人と見積もっても、僧の数は百万人にも及ぶ。こうした僧達は、皆無職であり、民が苦しんでいる時に穀を食いつぶす輩である。もし後の世が乱世となれば、恐らくは武将達も屈服させられるだろう。長きに渡って国家を維持したいと思うのであれば、寺院勢力を挫いておかなければならない。」とある。かかる論述は、暗に公武に申し上げるつもりで書いたものだろう。水戸の会沢正志斎の『新論』のなかには、天下の寺院は約五十万あると書かれている。極めて杜撰な言及であり、数を調べることもせずに著し、世の中に広めたのも、仏法の流布を忌避するがゆえであろう。そのなかに記されている、武将も屈服するなどという記載は、我が真宗を指して言っていることである。昔の戦国の時代を引き合いに出して当今を論じていることも、彼らの大きな誤りである。今日のように教が行き届き、ますます王法を重んじて、教義に従っているがために、我が真宗が天下に充ち溢れているのであり、いよいよ国が富み、民が安らかとなって、彼らの言う堯舜の治世の民のようになるであろうことは、火を見るよりも明らかである。こうしたことからも、真宗の僧侶達は、より一層に宗義を掲げ、王法仁義の掟を世に示して、彼らの愚かで誤った考えを挫かなければならない。


●所見

○『経済問答秘録』の排仏論に対する反批判の論法。
 =『経済問答秘録』が、豊臣の名を使って実は徳川を批判しているという論法。
 →「カシコクモカシコクモ神君ノ御処置ヲ怨ミ奉ル大罪人、糺明セズンバアルベカラズ」(136頁)。

⇒鄯、竜温において貫徹されている神君徳川家康という認識(現状に対しては疑いの目がない?)。
鄱、家康もまた仏教的なタームのもとで捉えられる。

ex、「或ハ太子・皇子トナリ、或ハ摂政ノ大臣トナリ〈鎌足公也〉、或ハ国王〈東照神君〉トナリテ、此仏法ヲ起シ玉フ」(119頁)
  ←神君家康を頂くことで形成される近世的な秩序の中での主張。

・「それら〔仏教側の反駁書−松川注〕はおおむね近世的な時代精神によるものであったから、これを反駁し切ることは不可能であり、したがって究極的には妥協し、各排仏論の論旨を認めたうえで自己主張をする程度に終わっている。したがって、仏教が反倫理的であり人倫の道を否定するものであるとの指摘に対しては、仏教は世俗倫理と矛盾せず、かえって世俗道徳と一致することを説いて応酬し、また経済的立場での仏教が封建経済を浸蝕するとの経世論家の排仏論に対しては、仏教は王法(国法)遵守を説いて国民教化に資することを指摘して、政治との結合を説き、神国観からの排仏に対しては、旧来の本地垂迹説によって神仏関係を説いたり、仏教と皇国との関係を説いて防禦につとめた。〔中略〕以上、要するに排仏論書への反駁は、いわば消極的な自己保全に終わるのみで、清新な時代への発言はほとんど提示されなかったといえよう。*1」(柏原祐泉)

・「〔各藩の東照宮祭祀の〕徳川家康の姿は、文武の徳を備えた「神君」であり、武将や政治家として優れていたことには止まらず、聖人の域に達した存在と見なされる*2 」「幕末に至るまで、平和を擁護する諸教一致の神格として、東照宮の権威は根強く残っていたといえるだろう。*3」(曽根原理)

cf、「汝ガ称スル堯舜ノ民ノ如クナラムコト、ソノ掌ヲミルガ如シ。」(136頁)=仏教によって、堯舜のごとき治世が実現するとの竜温の主張。

cf、「恐れ多くも権現様御儀は、〔中略〕諸宗の僧徒等も御用にはありけれども御崇敬はなく、堂塔伽藍建立もなく、寺領も多く宛行はれたるはなく、右体照明なる御武道を以て奸賊御征伐、国家平均に遊ばされ、御法度を立てられ、諸候大夫に国郡を割き与へられ、かつ上下の奢侈を御鎮めなされ、御身より御心も質素倹約を守らせられ、士農工商、皆その所を与へ給ひ、神・儒・仏の道を始め、すべて諸芸道とも明白に復し給へり。これ『大学』の綱目にいはゆる「明徳を明らかにするにあり、民を新たにするにあり、至善を止むるにあり」といへる如く、また御旗にある所の「厭離穢土欣求浄土」の仏意の如く、国家を改め給ひしなり 。*4」(『世事見聞録』)
=仏教に批判的でありながらも、家康の治世によって平安がもたらされたという認識。

⇒やはり、竜温にとっての目下の争点は、キリシタン並びに西洋天文学か?

※一方で、「護法=護国」を言う竜温からは、近代仏教への過渡的言説を見ることもできる。

 ・「近世一般における排仏―護法論争の特徴は、いずれの教説がより適切に真理へと到達できるかを議論の中心としていたのであり、真理すなわち普遍的な道が存在するという確信は、共有されていた。この意味で彼らの関心事は、道の内容以上に、そのアプローチ自体(道の工夫)にあったと言ってよいであろう。こうした普遍的な道の在り方を問う視座は、しかしながら幕末期以降の排仏――護法論争では後退してゆく。すなわち儒者は「出世間」という非倫理性や政治的無用性から、国学者は「異教の教」という外来性から仏者の説く道自体を批判するようになったのである。かくて三教一致的な道の普遍性――それは「三国」という空間的超越性でもある――そのものを否定された仏者の側において、「日本」という地域的固有性を前提とする新たな座標軸が登場することとなる。〔中略〕いわばそれは、己が信ずるところの教説における価値の源泉が、仏法そのものから王法へと逆立ちしてしまっているのであり、そこには仏法の超越的な普遍性に対する確信の後退を見ることができるのである。ひとつの固有な全体としての「日本」を前提とした「護法護国」という語りの枠組みは、決して尊王攘夷思想の流行や夷狄(特にキリスト教)の脅威といった政治史的文脈だけに由来するものではなく、仏者自身における道の語りそのものの変容にその源泉があった。*5」(桐原健真

⇒近世→近代への仏教の展開・転回をどう考えるか?

○竜温が引用する『経済問答秘録』該当箇所の主張。
鄯、経世論の観点から「遊民」たる仏僧の批判。

・「僧徒モ我領内ニ役夫在ルユヘ、其身ハ遊情ニシテ、聊ノ事ニモ人ヲ使ヘリ、釈尊難行苦行ヲ存ジ附カバ、仲々身ヲ安快ニシテ人ヲ使フハ、勿体ナキ事也*6 」(『経済問答秘録』巻17)

・「是皆無職ニシテ、民ノ艱難セシ穀禄ヲ喰ヒ潰ス者ナリ*7」(『経済問答秘録』巻18)

鄱、真宗の数への脅威。
  ・「今門徒僅六百年ヲ歴テ、天下ニ蔓延シテ七分ト為ル、若シ宗旨ヲ頽サバ、天下統テ門徒ト為ルベシ、民心ヲ得ル者ハ天下ニ王タリ、放縦ニシテ置カバ、若シ後世一乱ニ及バゝ、疑ラクハ武将モ屈服センカ、千載社稷ヲ保タント欲セバ、其威ヲ挫キ置クニ如ズ*8」(同前)

⇒竜温の論点と微妙に食い違う箇所もあるか?

文責:松川雅信

*1:柏原祐泉「護法思想と庶民教化」(『近世仏教の思想』岩波書店、1973年)536〜537頁。

*2:曽根原理「徳川家康の年忌儀礼と近世社会」(『季刊日本思想史』78号、ぺりかん社、2011年)5頁。

*3:曽根原理「秀吉・家康の神格化と「徳川王権論」」(『日本思想史学』44号、日本思想史学会、2012年)16頁。

*4:武陽隠士著・本庄栄治郎校訂『世事見聞録』(岩波書店、1994年)405頁〜406頁

*5:桐原健真・オリオン・クラウタウ「幕末維新期の護法思想・再考」(『日本思想史学』44号、日本思想史学会、2012年)66頁〜66頁。

*6:瀧本誠一編『日本経済叢書』巻23(日本経済叢書刊行会、1917年)17頁。

*7:同前、37頁。

*8:同前、37頁。