竜温「総斥排仏弁」ー「サテ次ニ」(p124)〜「加ヘ置クベキコトナリ」(p126)まで

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【訳文】
(※キリスト教と西洋の天文のことは、ここでは論じ尽くすことができないので、概略だけ示して、詳述はしない―報告者注)さて次に、近頃の我国における排仏家たちは、先述したところにも書き連ねた人物や書名は数多いが、中でも今日において最も注意しなければならないのは、平田篤胤が作り出す悪口である。篤胤やその門人たちがもともと行動を起こさなければ何も恐れる必要はないが、彼らは実際に行動を起こし反乱まで起こすような連中であるため、恐れる必要がある。その篤胤は秋田で没して、十五・六年にもなるが、篤胤には子孫や門人がおり、彼らの手によって篤胤の著作は次々と刊行されている。篤胤が死んだ時、門人たちは数日間にわたり、篤胤の亡骸を葬る菩提寺と争ったが、かかる行為は天下の御国政を非難することになるので、とうとう折れて、禅僧によって篤胤は引導を受けた。篤胤が迷いなく浄土に導かれたかどうかはわからない。さて儒学に目を向けると、近頃では九州肥前から刊行された正司考祺の『経済問答秘録』全三十巻があり、これも恐れるべきものである。なぜこれを恐れなければならないかを説明するならば、長らく徳川の治世は太平であったため、「文」、つまり学問や芸術が華やかになって大きく開けて、人々は詩文や書画を嗜むようになり、各々の道に優れた人は、一時期はとても多かったが、近頃の混乱した時勢になってからは、儒者はひたすら国家の経世済民について論じるようになった。この状況をひとつの節目として、中井竹山の『草奔危言』、熊沢蕃山の『経済弁』、太宰春台の『経済録』、出羽国の人である佐藤信淵の『経済要録』二十巻などは、全て活版されて流布している。その他には、蒲生君平の『今書』と題した書物や、鬼国山人という人物が書いた『破家のつづくり咄』という書物も刊行されて流布している。その他に、写本として流布しているものに、帆足万里の『東潜夫論』や著者はわからないが『新政談』などは、恐れも顧みず、当代の政事に対して言及している。本来ならば儒者という存在は、決して国政について論じるべきような身分ではない。彼らはもともと文章や詩文などの読み書きや暗誦を教える程度の取るに足らない者たちである。しかし、近頃では彼らは何も憚らず、国政について論じている。儒者はそんなことを行える身分ではなく、また政事について考えるべき存在でもない。しかしながら、かかる行いをしても罪に問われないために、儒者たちの著作の言動が、いまは逆に重用されている。これもまた驚くべきことである。
さて、このたび九州から刊行された、正司考祺の『経済問答秘録』と、平田篤胤の著作との両者を取り上げて、その評価と論破を付け加えておこうと思う。しかしながら、両者では仏法に対しての非難の仕方について、違いが見受けられる。これも心得るべきことである。両者が共に仏法を憎み排斥しようとしているのは、同じではあるが、しかし仏法を非難する意図に両者の違いがある。まず篤胤は、直接釈尊に向かって悪口雑言を吐く。それによって、人々の仏法への信心を失くして、我が国が根拠としている仏法を遵守しているがために神もまた存在する「神国」(※本文では「吾神国」)の地から仏法を排斥しようとする悪しき謀略である。一方、『経済問答秘録』は、釈尊のことは脇に置き、国家の経世済民に関して、仏法が「治国平天下」において無用であり、僧侶はただ遊び暮らしている連中であることを非難する意図がある。だから、今の世の弊害を助長している風潮を仏法に探り出して非難することにより、仏法の力を削ぎ落とそうとする意図が見受けられる。熊沢蕃山の『大学或問』などがこれと同じ意図を持っている。また写本の『新政談』第三巻の終わりには、「寺院御取扱の事」という一条がある。これも全く同様の意図を持ったものである。(正司考祺はその意味で論に基づいているが―報告者注)篤胤の場合は、あることないことを何でも取り入れた悪口雑言であるため、中でも心ある人は、篤胤の人柄を知ったうえで著作を用いない人も多い。篤胤は儒者や医者だけでなく、自らが重んじている神道者までも論破している。それだけでなく、「神道」という言葉も嫌っている。「儒教と仏教が我国に渡来してきたので、それに相対して区別する言葉として神道という。この国が教えとして神道を重んじているのであれば、もはや神道ともいうべきではないだろう。それこそ我国の大道なのだ」と篤胤は述べている。それに関わることだが、篤胤は自分は本居宣長の一番弟子のつもりかもしれない。しかし本当のところ、宣長からすれば「不忠者」と言うべきである。その理由は、宣長はたいそう仏法を嫌った人で、自らの教えを説くところには、大いなる邪見が見受けられるが、宣長は学問で表面を飾り立てて、簡単にその邪見を露呈することはなかった。だから、宣長の学風を慕う人たちからすれば、宣長の説く教えを「邪しまである」と言えば、腹が立つことかもしれない。しかしここではそのことをを看破しなければならないので、指摘するのである。しかしながら、篤胤に至っては、その悪口雑言を吐くところで、すべて宣長が包み隠していた事柄も世間に暴露してしまい、宣長の人柄までも失墜させてしまった。このようなことから、篤胤は不忠者と言うべきである。だから篤胤に対してはどんな悪口を吐いて非難してもかまわない。
『経済問答秘録』は、篤胤とは違い、批判をする時は慎重にするべきである。(※前後の文脈と合わないが補注を参照にする限りでは、宣長の直毘霊論争のように、「経済問答秘録」を簡単に批判すれば、仏教界の立場が危うくなるので、慎重な発言をするべきであるという主張が折り込まれている―報告者注)例えば、直毘霊論争を見てみよう。宣長が説く教えには、邪見が見受けられる。宣長が著した直毘霊の説は良くない。市川鶴鳴という人が、『麻賀能比礼』という書物を著して、宣長を論破した。宣長も『葛花』という著作を出し、市川(※本文では本居)を再批判した。また、沼田順義という人が、『国意考弁妄』を著して、宣長と市川を批判し、さらに沼田は『級戸追風』を作り、改めて批判した。それを受けて、原田重枝という人が、『返しの風』を著して、沼田を批判した。というように色々と往復したが、宣長の説の方が流布している。近頃では江戸に橘守部という人がおり、色々な著作を出している中でも、『鐘の響き』という著作で宣長を批判したが、それでもやはり宣長の説が支持されている。篤胤の『出定笑語』の初めには、宣長の言葉を引用し、「仏の道というのは、女性や子供に嘘をついているような教えで、論じるにも足らないものである」という言葉や、「釈迦といふ/大おそ人の/おお言に/おそ言をそえて/人まどわすも」などという歌を引用している。宣長には『玉鉾百首』という書物がある。拝読すればいい。このように非難をすると、宣長を慕う人たちは腹が立つかもしれないが、篤胤の悪口雑言は宣長に由来しているものである。これらのことは、ついでに述べておくものである。これから『経済問答秘録』の中で、近いうちにも仏法に対して害を及ぼすことになろうかと考えられる箇所を取り上げて、その批判を付け加えておこうと思う。

【担当箇所の論点】
「本ヨリ行ハレネバ、恐ルヽコトハナケネドモ、行ルヽ故ナリ」(p126:8行目)
→平田派門人たちの「行動主義」的な側面に注意を促す。生田万の乱(1837年)などを念頭にした発言か?

「是本儒者トイヘルモノ、決シテ国政ノコトナド与リ論ズベキモノニアラズ」(p127:1行目)
儒者の身分的立場について言及。篤胤も同様の論点から批判。
「先ヅ篤胤ハ……諸人ノ仏法ヲ信ズル意ヲ破リ、信ヲ失ハシメテ、吾神国ノ地ヲ払ハント云悪謀ナリ」(p127:7行目)
→この箇所での「神国」という用語の使われ方。竜温にとっては、仏・儒・神ともに「世間教同一体」(p108:8行目)であり、その意味での「神国」。この箇所では、篤胤批判の文脈から、篤胤こそ、「神国」認識を瓦解させる危険性を孕んだものと捉えている。

「ヤハリ本居ノ方ガ世ニ行ルヽ」(p128:8行目)・「本居ヲ破シテアレドモ、ヤハリ行ルヽ」(p128:10行目)
宣長の思想の流布のあり方について言及。論争家としての宣長はこの時期にすでに有名だったか?

【考察】
今回の担当箇所は、主に平田篤胤に対する言及がされていたので、本報告では平田篤胤に関して考察を行う。訳文や論点などで先述したように、竜温も平田派の門人たちの行動を指して、「本ヨリ行ハレネバ、恐ルヽコトハナケネドモ、行ルヽ故ナリ」(p126)と述べているように、すでに平田国学の思想が「政治運動」的な側面が孕んでいることを察知していたことは、生田万の乱(1837年)や、鉄胤門人の角田忠行(1834-1918)が首謀者として起こした、等持院足利氏三代木像梟首事件(1863年)などが有名である。その意味で同時期における平田派門人の動向は、風聞を含めて周知の事実として受け止められていたと推察される。
吉田麻子の研究によれば、生田万の乱などの影響で門人にも動揺が見られ、「公儀」への批判として危険視されるのではないか、と恐れていたことを書簡類の史料から明らかにしている。とりわけ、生田万の著作である『古学二千文』(1849年刊)は気吹舎が版下となっており、鉄胤などは、生田万の著作を、嘉永二年(1849)を嘉永五年(1852)とし、実際の刊行年とは違う年に刊行年を意図的に改ざんしている。また同書によれば、『出定笑語』や『西籍概説』といった篤胤の主著は、気吹舎側は「公儀」への政治的配慮から刊行することを避けていたことが明らかにされ、また無断で海賊版が出回っている状況を思わしくない事態として捉えていたことを指摘している。(吉田麻子『知の共鳴―平田篤胤をめぐる書物の社会史』、ぺりかん社、2012年)
その関連から輪読テクストと合わせて考えるならば、排仏書とみなされているテクストも、むしろ衆目に触れるように、海賊版として無断で流通していた書物の方が多かった可能性が推察される。東本願寺教団は、「私(竜温)ニモ内命ヲ蒙リ」(p125)と既に外教研究(※国学もその中に含まれる)に着手している。教団の方針として、流通している書物に関する情報を集めていたと思われる。本来ならば、東本願寺教団内における書物流通の状況も詳細に考察するべきだろうが、報告者の力量もあり課題として挙げるに止めておく。参加者の意見を拝聴する次第である。

【参考文献】
吉田麻子『知の共鳴―平田篤胤をめぐる書物の社会史』、ぺりかん社、2012年。