竜温「総斥排仏弁」―「依テ今」(p121)〜「アルベカラズ」(p123)

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●現代語訳
 ※□で囲った箇所は、報告者が訳出できなかったところを指す。

 今、排仏論が起こってきた理由を私なりに考えてみると、五つの理由があると思われる。一つ目は、仏法の理が深く広いがため。二つ目は、人々の心が淳朴さを失っているがため。三つ目は、「見濁」がいよいよ盛んになっているがため。四つ目は、僧侶たちが「弊風」に流れているがため。五つ目は、仏教が世に広まることを良く思っていないがため。これらが末世の今日において、排仏論が起こってきた理由である。まず、最初の仏法の理が深く広いがためとは、仏の説が広く深く、思慮ヲ絶シ、言説ヲ亡ズル(ニ)於テ、前世からの因縁がある者でなければ、教を信じて了解することができないことである。もし仏の説を信じないのであらば、人はこれを謗る。仏の智慧の悟るところ・仏の眼の照らすところは、説明のないものを説明し、名前のないものに名を与えて、これらをもって迷いの道に転倒する衆生のために説かれる。よって、例え話をしたり、因縁を示したりして、信心の心をめばえさせなさる。仏による方便は、すべて大きな慈悲心によって生ずるものである。戒律は、大きな慈悲心が等しく受け伝えられ流れることはあっても、ただの戒律のみではない。言うなれば、一切の仏法は、すべて仏の慈悲心より流れ出ている。よって、迷ヲ転ズルことは、苦を抜こうとするためであり、証ヲ同ジカラシムルことは、楽を与えようとするためである。これらは仏教のおおよその概要であるため、結局のところは慈悲の心に帰しているのである。故ニ心ノ及バザル甚深ノ仏法モ、仏説無虚妄ト信ゼラルゝナリ。もし、仏が仏である所以を知らず、前世よりの因縁がなく信じることができなければ、また自らの邪見に従って仏説を読んだならば、すべて荒唐無稽な説明となってしまう。そして、かかる荒唐無稽さを謗って虚説であると言う。自分達の儒典に載っていることすらも、今日における眼の前の理と相違すると述べることは言うまでもなく、女禍の時代に祝融が戦に敗れ、その怒りで頭を不周山にぶつけて、天の柱を折ったなどという話も、唐の儒者は荒唐無稽であると述べている。まして、我が仏教の教が広大であることを信ずることができないのも、当然であろう。とりわけ、近年、西洋の究理を称する者達も、不思議というものを全く信じない。また我が国の神道者も、神代の怪しいことを信じることができない。すべて今日現世における事によって、無理に矛盾しないよう解釈し、文脈が合わないところは、秘伝口受としている。このような風潮となったため、儒者神道者も、仏法を信じることができなくなり、信じないがゆえに嘲り、罵ることを憚らないようになった。
 二つ目の、人々の心が淳朴さを失っているがためとは、先にも述べたように、古の人達は純朴で正直であったがゆえに、尊ぶべきことを尊び、信ずべきことをそのまま信じていた。仏説無量寿経には、「世人薄俗」という記述がある。「菲薄ノ衆俗」という意味で、末世には、次第に人々の信仰の心が薄くなり、邪見だけが増すという様子を指している。ここで悲しむべきことは、今日において仏法を信じている者は、すべて田畑を耕作し野に暮らす人達のみであるということである。わずかに人の上に立つ者は、庄屋・代官などと言われる者達や、裕福な家の者達であり、彼らは詩文をたしなみ、読書を好むというが、その中で仏教者を信じる者は極めて少なくなっている。代々仏を信じる家に生まれながら、先祖を侮り、家風までをも変えるという輩が、いたる所に散見される。近頃、頼山陽の『日本政記』の中の聖徳太子をしかる箇所に、「今の仏説は、愚夫愚婦の間で流行しており、人の上に立つような者が仏説を信じる風潮が、古の時代ほどにまで至っていないことは、我が国における幸いなことである」と述べられている。誠に悲しむべき記述である。是又、仏者ハソノ理ヲ究ムベキコトニテ、コノ仏法ハ浅近ノ法ナルガ故ニ、愚夫愚婦ノミ信ズルニ非ズ。我が国の人々は、上古の淳朴さを失っているけれども、かかる古の淳朴な本来の人間性は、田畑や山に住む愚夫愚婦に未だ残っているということであろう。そうであるがゆえに、純粋に仏法を信じているのである。利口ぶって文字を知っていると言う輩の方が、かえって仏を信じる心を妨げるのである。仏法の理からすれば、むしろこれら利口ぶった輩の方を愚夫と呼ぶ。このような道理を心得なければならない。


●論点
・「末世ノ今日、排仏ノ起ル由ナリ」(121頁)
 ⇒「末世」とともに、「排仏」が盛んな現状認識が語られる。同時に「世人薄俗」となる。
・「本邦ノ神道者モ、神代ノ怪シキ事、コレヲ信ズルコト不能」(122頁)
・「古ノ人ハ質素正直ナルガ故ニ、尊ブベキコトヲ尊ビ、信ズベキコトヲバソノ儘信ジタルコト也」(122頁)
 ⇒信心の根拠としての「質素正直」。cf、宣長による「漢意」批判と「真心」「自然」
・「ソノ古ノ直ホナルマコトノ人間タル処ハ、田家山家ノ愚夫愚婦ニ残リテアルガ故ナリ。ソレガ故ニ直ニ仏法ヲ信ズル」(122〜123頁)
 ←「中ニ於テマメヤカニ死出離ヲ願ヒ求ルハ、唯浄土門、殊吾真宗ニ在リ。然ルニソノ信ズルモノハ多クハミナ野民ニ在リ」(106頁)
 ⇒真宗の信仰主体としての「愚夫愚婦」「野民」。cf、民衆宗教


●史料紹介
頼山陽『日本政記』巻之二、崇峻天皇
頼襄曰く、儒学と仏説と、皆外国より来るは、択ぶことなきなり。而るに、仏説の一たび吾が国に入るや、これを好みこれを崇め、以て君父を易る者あるは、何ぞや。儒学は人倫を叙し、平易にして喜ぶ可きものなし。その文は外来なりと雖も、その実は固より我れに在り、仏説の新異にして、宏濶・誇大、人聴を聳たすに足るが如くならざるなり。吾嘗て三韓の史を読むに、その君の仏説に惑ひ、以て乱亡を致すは、皆これなり。吾が邦は未だ彼れの如きに至らざるなり。而れども酷だこれに肖たるものあり。それ人臣の弑逆を行ふは、開闢以還なき所にして、天地の大変と謂ふ可し。而るにこれを過去の報に諉くるは、三綱淪んで九法斁るるに幾し。廐戸は智慧人に過絶す。姑く太子となり、以て人望を属す。その志は異日真に即き、天下を擅にするに在り。而して馬子の勢に倚る。馬子は大連と相軋る。これを除きて自ら逞しうせんと欲し、亦た太子に倚り、以てその姦を済す。而も皆仏説に藉り、遂に踊呪に典礼を媲せ、堂塔に膏を塗るを致す。王業の衰ふるは、大端ここに在り。三善清行の言ふ所、以て験す可し。然りと雖も、清行は特その費を言ふのみ。その是非を顚倒し、善悪を混淆すること、洪水・猛獣の害より烈しきを知らず。姦雄の人、毎にこれに藉りて、以てその心を解く。下りて北条・足利の禅教を崇ぶに及ぶまで、この旨を宗とするに非ざるはなし。我が邦は君臣の義、万国に度越す。而るに西竺の説、これを壊り、これを土灰沙塵に帰して止む。而してその端を開く者は、厩戸・馬子なり。慨くに勝ふ可けんや。千載の下、独り織田氏のみ断然惑はざるは、祖宗の国を匡正する者に庶幾し。ここを以て、今の仏説は、愚夫愚婦に行はれて、人の上たる者のこれを信ずるは、古昔の太甚しきに至らず。これ我が邦の幸ひなり。焉んぞ祖宗これを冥冥の際に佑くるに非ざるを知らんや。旧事の記は、厩戸の手に出づ。蓋し亦た事実を錯乱し、以て自らの便に資するものあらん。察せざる可からざるなり。(55〜56頁)


〈参考文献〉
・植手通有校註『日本思想大系49 頼山陽』(岩波書店、1977年)
・柏原祐泉・藤井学校註『日本思想大系57 近世仏教の思想』(岩波書店、1973年)

文責:松川雅信