竜温「総斥排仏弁」ー「三、審論詆排起由」(p119)〜「邪見熾盛ノ相ナリ」まで

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【現代語訳】

三。詳しく仏教排斥が起きた理由について論じる。我が国の仏法の歴史は既に千年以上にもなり、朝廷だけでなく名もなき人々においても、仏法が広く崇められていることは、実に不可思議な「大因縁」というしかなく、それも一回限りの縁というようなものでさえない。そもそも我が国は、仏が広く崇敬されているからこそ、神もまた存在している国、すなわち「神国」であり(※史料の表現では神国)、このような「大因縁」は、神仏の御神慮による加護がなければ、簡単に得られるようなものではない。たとえ、仏法が百千という数多くの誹謗の言葉を投げかけれたとしても、この「理」だけは微動だにしない。その「大因縁」というのは、どの時代を経たとしても、その時代には必ず高僧や名徳家が、きらめく星のように連なっては次々と輩出されてきたことである。かかる人物の中には、聖徳太子のように、「皇子」になったり、藤原鎌足公のように、「摂政」になったり、東照神君徳川家康公のように、「国王」(史料の表現では国王)などになり、この仏法を盛んにし、またお広めなさった行いは、その教えの後を継ぐ者たちが、たとえ平凡な知恵しか持たないような者(※史料は「凡地」とあるが、「凡智」の誤植か?)にも教え示そうとしたからであり、その神慮は凡夫では計りがたいものである。これこそ、我が国において遥か古の時代から排仏を唱える輩がいなかった理由である。ゆえに我が国は漢土よりも優れている。仏法嫌いで有名な本居宣長は、『玉勝間』のなかで、「我が皇国人は、身分の上下に関わらず一人として仏法を信じない者はいない」と、なんとも不思議そうに言ったのだが、それを宣長あなた自身の言葉を借りて答えようではないか。つまりあなたが常日頃から言っているように、「皇国人が、身分の上下に関わらず一人として仏法を信じない者はいない」という事実こそ、我が皇国人の心がまっすぐ素直であり、漢土人のように差し出がましく物知りぶる「さかしら」の心よりも優れているところなのだ、と。だからこそ、昔の人に、仏法を誹謗するような者はいなかったのである。これには、れっきとした理由がある。第一に、人々の心が素直であるために、仏法を篤く信じていること。第二に、智恵と人徳を兼ね備えた人々が、それぞれの教えを司っていること。第三に、たとえ時代が戦乱の世になったとしても、それでも仏法が衰えることはなかったこと。かかる理由があるからこそ、上古の時代から人々の心は素直であり、信じるべきものを信じ、尊ぶべきものを尊んできたのである。これこそ、我が宗祖親鸞が、「仏法という大海に入るためには信心がなければならない」と説いている道理に適うものである。また、智恵や人徳を兼ね備えている人々が、それぞれの教えを司るというのは、つまり、神道儒教を司る人々は、全て朝廷に仕えている公家や博士家の出自を持つ人々であるため、仏法に対して悪口を吐くということもない。また、仏法を司る人々も、高僧や名徳家ばかりなので、そもそも仏法が誹謗を受けるような道理すらもないのである。

さて、その後の時代はというと、世の中は乱れてしまい、神道儒教などの教えは衰えてしまったが、仏法はますますその因縁が深くなり、衰えなかった。とりわけ僧侶は、俗世から離れて学問を修める者であるから、仏法だけが盛んになり、その結果として、「物事を良く知る者は、すべて僧侶だけである」と人々が言うようになった。さらに言えば、武士は、学問を修めるような暇さえない。こうして仏法を篤く庇護する徳川の治世になってからは、徳による教化は全国に広く行き渡り、天下は大いに治まるようになったため、学問は大きく開かれたものとなり、他の芸道も盛んになった。しかし学問が開けるようになったからこそ、仏法が誹謗されるようになったというわけではない。今の世は、昔のように人々の心が仏法を篤く信じながら学問を修めるものでなくなり、さらに学問が開けるものとなるに従って、自らの邪まな見識を振りかざして自慢するようになったからこそ、仏法が誹謗を受けるようになったのである。これもまた「時代」というべきであろうか。かかる弊害を生み出すような風潮が当たり前になった理由は、太平の世が長く続いたので、人々は贅沢に走るようになったと、儒者たちも常日頃から言っていることだが、だからといって、それは太平の世そのものを恨むべきことではない。太平の世そのものは、たしかに喜ぶべきことだが、しかしながら、仏法を誹謗する弊害を生むような風潮になってしまったことは、仕方のないことである。だから今の世を仏法の道理から言うのであれば、疫病や飢饉が流行する「劫濁」の世であり、衆生を善導に導く人が現れず、また誤った見識が跋扈する「見濁」という世の姿そのものである。その誤った見識というのは、昔の菅原道真公のように、博識かつ優れた才のある人が仏法を信仰した。また、北畠親房公や一条兼良公などは、時代を築いた名高い学者であり、彼らもまた仏法を信仰した。本来ならば、「このように優れた人たちでさえも信じなさった仏法であるならば、まして私のような人間が仏法を謗るような道理などない」と言うのが、真の人間というべきであろう。しかし今の誤った見識を持つ邪まな輩は、「こんな人でさえ、仏法などを信じるということは、いかにも仏法とは泥臭くて暑苦しい」とか、「仏法だけが病いじゃ」などと言い、名高い学者たちを誹謗する。かの有名な韓愈でさえ、排仏を唱えたときに、大顛禅師が昔にいた優れた人たちが仏法を信仰していた証拠を一つずつ引用して、韓愈を責めたら、韓愈は反論できず、口を閉ざしてしまったというではないか。しかし近頃の誤った見識を持つ邪まな輩は、韓愈よりも手強い相手である。彼らは、昔の時代に仏法を信仰していた人たちを一人ずつ数え上げて、「今の世でも、まだ人々を騙している仏法から逃れることはできない。それでもなお人々を仏法を崇めるのは、恨むべきことである」と言う。また、「ただ一人藤原惺窩が現れてから、はじめて人々が仏法から逃れるようになった」などとも言っている。これこそ、実に誤った邪まな見識がますます盛んになっている今の世の姿である。

【担当箇所の論点】
「本ヨリ神国ニシテ、如是ナルモノハ、抑モ神慮ニ冥応セズシテ得ベキニ非ズ」(p119)
→この箇所で主張する「神国」。仏法があるからこそ、神にも加護を受ける国としての「神国」。徳鳳の『護法小策』にみられる、「我日本ハ、仏法有縁ノ神国ナリ」(本書解説、p546)と同じ論法ではないか?竜温だけでなく、同時代の護法論書で、「神国」という概念に異同はあるのか?
「是漢土ニスグレタルトコロ……吾皇国人、漢土ノサカシラニ勝レタルトコロナリ」(p119)
本居宣長の議論をそのまま護法論にスライドさせている。学僧たちは、宣長をどう読んでいたのか?幕末維新期における宣長をめぐる解釈とは?
→担当箇所では、論点が前半部分にあると思われる。本報告では二点のみ取り上げた。

【高倉学寮の略年譜】
(年代)      (事項)
1602(慶長7)  本願寺教団が東西に分裂。
1638(寛永15) 西本願寺が寺院の子弟を育成するため、学林を創設。
1659(万治2)  日蓮宗徒が東本願寺に入り、寺内にて門徒と法論を交わす。一保が日蓮宗徒を論破する。法論後に一保は、東本願寺に学寮を創設することを進言。
1665(寛文5) 第十五世宗主常如により、東本願寺飛地境内である渉成園に学寮を創設。
1715(正徳5) 学寮の規模拡大に伴い、学寮の組織を再編。学寮における最高学職として、講師職が設けられる。恵空が初代講師職に任命される。
1745(延享2)  富永仲基が『出定後語』を刊行。
1755(宝暦5) 学寮を高倉通魚棚に移転。高倉学寮と称す。
1757(宝暦7) 新たな学職として、擬講が設置。
1758(宝暦8)  慧林が学寮内の蔵経の不備を進言し、大蔵経の整備事業が行われる。
1766(明和3) 講師職の整備が行われ、三講者制が確立。
1789(寛政1) 中井竹山の『草茅危言』が成立。
1791(寛政3) 擬寮司が新たに設置される。
1809(文化6)  尾張国で法義不正者五人組が本山を訴える事件が起きる。講師職にあった深励が五人組を弁護したことにより、講師職を解かれる。講師職が不在となる。
1811(文化8) 深励の解任に伴い、宣明が講師職に任命。同年に深励も復職。講師職が二人制となる。
1825(文政8)  江戸幕府異国船打払令を公布。
1826(文政9)  所化の増加に伴い、寮を七棟新設。
1833(天保4)  正司考祺が『経済問答秘録』を刊行。
1849(嘉永2)  平田篤胤が『出定笑語』を刊行。
1854(安政1)  月性『仏国護法論』を刊行。
1858(安政5) 竜温『護法弾邪弁』を刊行。また、第二十世宗主達如により、竜温が洋教研究を命じられる。
1861(万延2) 竜温が講師職に任命される。
1862(文久2) 竜温「耶蘇教防禦掛」となる。
1865(慶応1) 竜温『総斥排仏弁』の元となる講義を学寮で行う。
1866(慶応2) 本山が「宗学護法の書出」を出す。「王法仁義の掟」と「護法の忠誠」
を促す。
1868(明治1) 高倉学寮の敷地外に護法場を設立。竜温が護法場の人材を推挙し、護法
場が、教団における外学研究の拠点となる。護法場では、所化として
南条文雄も学んでいる。
1869(明治2)  前年から学寮と護法場の間で寺務改革をめぐる争論が起きる。
1872(明治5)  明治政府が教導職を設置。
1873(明治6)  高倉学寮が貫錬場と名称を変更。これに伴い、護法場が閉鎖される。

※関係事項の記述に留め、護法場の閉鎖までの経緯について作成した。また、略年譜は、大谷大学百年史編集委員会編『大谷大学百年史 通史編』(大谷大学、2001年)を参考にして作成した。

【高倉学寮の組織と職制について】
学寮における職制は、学寮奉行・監寮奉行・寮支配・講師・嗣講・擬講・寮司・擬寮司・上首・知事・所化に分けられる。学寮奉行・監寮奉行・寮支配は、寺務を担当する坊官や御堂衆が行う。学寮に関わる職制のみ説明。

講師……学寮の最高学職。宗主により嗣講の中から任命。
嗣講……講師を補佐する職。
擬講……講師と嗣講を補佐。講師と嗣講から適任者を寮司の中から推薦し任命。
寮司……所化寮ごとに一名選出。各学寮の学問的指導と事務を担当。副講を担当。
擬寮司……寮司になるための前段階として設置。当初は16年間懸席することで任命されたが、のちに懸席9年間で任命。
上首……学寮における庶務を担当。所化から事務に長けた人を任命。
知事……所化の寮舎退出と金銭出納を担当し、上首を補佐する。のちに国別に分かれて所化の事務を担当
所化…宗学に励む僧侶たち。

【所化寮について】
1755(宝暦5)年に、高倉学寮が移転創設。所化たちの寮として、松・梅・桜・柳・雪・月・花の各寮が設置。1826(文政9)年に、所化の増加に伴い、新たに七寮を設置。竹・柏・槙・桐・桂・杉・蓮の各寮。

【学寮における教育】
講義期間は、夏講・秋講・春講から構成。春講は、所化たちの越年が困難であることを理由にのちに廃止。教育内容は、宗乗(宗学)・余乗(宗学以外の仏教研究)・外学(仏教以外の諸学)から成る。主講は、講師と嗣講各一人によって、宗乗が講義され、次いで、擬講による内講が開かれる。期間中には余乗のみ寮司たちによる会読が開かれる。1805(文政2)年頃から、外学に関する講義が不定期に開かれるようになる。

【護法場での学科構成】
国学儒学・天学・洋教の四つに分かれる。竜温は学科に詳しい所化を広く募る。国学は和歌和文、諸流神道儒学は詩文、経済。天学は算学と暦学。洋教は、耶蘇(カトリック)と天主(プロテスタント)に分かれて、研究と講義が行われた。

【まとめ】
本報告では、高倉学寮について、基本的な事項について考察した。本報告では不十分であるが、輪読に際して一助となれば、と思う。今後の輪読を通じて、議論を深めていければと考えている。

【参考文献】
大谷大学百年史編集委員会編『大谷大学百年史 通史編』、大谷大学、2001年。