竜温「総斥排仏弁」―「爾ルニ」(p115)〜「示ス置クコトナリ」(p117)まで

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現代語訳
(闇斎の弟子浅見絅斎の後、渋川春海伊勢貞丈・松下郡高などが現れたが、彼らの説が世に広まった訳でもなく、特に我が仏法の害となったわけではない。)

 しかしながら、近ごろ世間一般皆が靡き従い流行している説が本居宣長一派のものである。その学は難波の契沖より起こり、荷田春満賀茂真淵と続く。春満にも著作は頗る多いのだが、何か思うところがあって死の直前にすべて焼き捨ててしまったという。だから春満の著作は今は見ることができない。
 次に真淵というのは、通名は岡部の衛士といい、家の名は(号は)県居という。著述は四十九部、およそ百巻にのぼる。明和六年十月朔日七十三歳で没している。古の道を会得するには漢意を清く捨て去らなければならないと言い出したのがこの真淵である。だから真淵においては仏教よりも儒教を嫌っていたといえる。この真淵にいたって初めて古学が開かれたのであり、その著作には「考」の字を冠したものが多い。『国意考』『文意考』『歌意考』『語意考』『冠辞考』『祝詞考』などである。なかでも『国意考』こそが真淵の古学の真髄を示すものであり、仏教よりも儒教を嫌うこと甚だしいものがある。しかしながら真淵の著作には往々にして邪な説もあり、そのため『国意考弁妄』という批判書もでている。
 そして真淵の門下から本居宣長という者が現れた。加藤千蔭、村田春海なども真淵の門人ではあるが、彼らは歌道を専らとした者たちである。宣長は伊勢松坂の人で近ごろの大家である。我国の古学の一派をいよいよ弘めたのはこの宣長である。真淵の説を継承して大いに漢意を嫌い、『馭戎慨言』という書物がある。四巻である。また宣長は仏教を大いに嫌っていたけれども、改めて仏教批判の書物を著す遑もなく亡くなったという。尤も真淵の意図を受け継ぎ盛んに大和魂ということを論じた。生涯の著作は夥しく、世間に流布している書物の中でも特に『古事記伝』四十四巻は畢生の大業である。また宣長の随筆に『玉勝間』と名付けられた十五巻がある。その中で宣長が日ごろ心に抱いていたことを書き表しており、排仏の論の一端も含まれている。『鈴屋答問録』『玉鉾百首』『初山文』などで宣長の説の大意を知るべきであろう。その他に『古事記伝』の第一巻から抜きだした『直毘霊』という一巻がある。宣長の主張の中心と考えられる。しかしこの『直毘霊』には批判の書が有り、またそれに対する応答の書も有り、批判・反批判が屡々行われている。近ごろでは橘守部宣長の説く道には僻事があるとして嫌っているけれども、しかし宣長の説はいよいよ流行している。
 さて、この宣長の門人数ある中で秋田より出てきた平田篤胤という者は、その著述は宣長よりも多い。儒教、仏教を排撃し「古来よりの神道は皆仏教が混じっている。僧に欺された神道である」といい、それらを俗神道と名付けすべて批判していった。篤胤の著作で仏教を端々で批判していないものはないが、特に仏教批判のために著した著作として『印度蔵志』二十巻余がある<未脱草稿となっている>。次に『出定笑語』四巻、『悟道弁』二巻、『古今妖魅考』三巻、『釈氏根源記』二巻、これらは皆仏教に対する批判である。また儒教を批判した著作には『西籍慨論』四巻、『鬼神新論』二巻。また神道も散々に批判している。『俗神道大意』四巻、『古道大意』二巻、『伊吹於呂志』二巻など、端々で仏教に対する批判も述べてある。
 近ごろ出版されたものに『出定笑語附録』三巻があり、はじめの一巻は概して仏教に対する悪口であり、後の二巻は一名「神敵二宗論」と名付け、我が真宗日蓮宗と一括りにして神の敵であるとし、その悪口雑言見るに堪えないものである。しかしながら驚くべき事にこの篤胤の著作の悪口雑言が大いに有名になり、近ごろの仏教を嫌う者たち、武士や医者といった者たちまでが喜んで求め読んでいるということである。実に嘆かわしいこの頃である。大体古来より排仏を唱える書物は世の中に多く出回ったけれども、この篤胤の書物のような(ひどい)ものはなかった。
 以上あげてきた排仏の書物の中で、あるいは大息しあるいは断腸の思いのするものは儒者のものでは『出定後語』『草茅危言』、今現在ではあの『経済問答秘録』である。神道者のものではあの篤胤の著作だ。このような書物が道々に溢れるような状況になるとは分からなかった。しかしそのような書物を開き見ないというのでは現在の末代の仏教を護持する仏教徒とはいうことができない。これ以後如何なる排仏論者が出てくるかも計り知れない。また世の中は広くすべての排仏論書を見尽くすことはできないけれども今管見の限りをあげて、近ごろの排仏論者の大略を知るべくその一隅を示し置くものである。

○竜温(寛政12年−明治18年、1800−85)
○竜温の講演録。
大谷大学本−元治2年(1865)大坂難波御堂(別院)での開講
・東京正徳寺本−慶応元年(1865)江戸浅草御坊(別院)での聴録
龍谷大学本−慶応四年写録

将斥排仏邪計 一、総列破仏邪計
       二、別挙近世排仏
       三、具論詆排興由
       四、略示摧邪方策

二、「別挙近世排仏」を儒者神道者に分ける
今回は「神道者」の続き<国学者>(竜温は<国学者>とはいわない「古学」)を挙げる。

○p117l4宣長一派
・一大潮流としての宣長一派
→契沖、春満、真淵、宣長という系譜、(国学史、四大人観)
ただ、契沖、春満は付け足しのような記述。
真淵、宣長は漢意批判の文脈、=「古学」
宣長評価としての『古事記伝』=「生涯の骨折なり」
→当該期における<国学>への視点
・竜温にとっては反仏教というよりは「流行」が問題とされている。
→竜温にとっての現状認識。
○p118l6篤胤批判
・篤胤批判−篤胤の著作を多数挙げるがその内容を吟味するわけではない。
→竜温にとっての関心は篤胤の説に同調する時代状況
=p118後ろ4「驚クベキコトハ〜」
=武士や医者までが篤胤を褒めそやし仏教を嫌う。
○p119l1最も危険な書物
儒者−『出定後語』『草茅危言』『経済問答秘録』
神道者−篤胤の著作
→如是書類、道路ニ溢ルガ如クナルヲ知ラズ。l2
→「今時末代ノ仏法ヲ護持スル沙門釈氏」l3という自覚。


◎竜温の時代認識、歴史観
上代はまだ良かったが「今時末代」
→竜温が特に問題視する篤胤や仲基のテキストの吟味と同時に「排仏」「破ス」「破仏」、「悪口」「悪口雑言」「罵ル」「嫌フ」等々の言葉の問題。
・幕末における「護法思想」とは何か。(柏原祐泉)
→竜温は誰に語っているのか。
p106「同志ノ諸兄弟ニ曰ス」p119l1「今時末代ノ仏法ヲ護持スル沙門釈氏」
=篤胤「魂ノ行方ノシズマリ」、民衆宗教等
=「現世安穏、後生善処」という民衆願望。(大桑斉)

◎明治以降の問題
・「儒学史」「国学史」
・「護法」と「護国」

<参>
柏原祐泉「護法思想と庶民教化」(NST『近世仏教の思想』解説論文)
大桑斉『日本仏教の近世』(法蔵館、2003)

文責:石黒衛