竜温「総斥排仏弁」―「次、近来神道ヲ称フル者」(p114)〜「云ニモ至ラズ」(p117)

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※網掛の斜体は、報告者が訳出に疑問を感じた箇所である。

●現代語訳

次に近年の神道を称揚する者が、仏法を憎んでいることを理解しておかねばならない。まず本朝に仏法が伝来して以来、各代の天皇がこれを崇め信じられていたことは、国史によって明らかである。神道の起源といえば中臣氏であり、これは後にわかれて三姓となった。すなわち中臣・藤原・卜部である。歴代の名高き天皇は、体面では神道を奉じていたが、心の内では仏教に帰依しており、老後に至ると剃髪し入道と称して仏門に入った者も少なくない。天武天皇などは、出家して法衣をお召になられ沙門天皇と称したそうだ。『日本書紀』を編纂なされた舎人親王は、天武天皇の皇子でいらっしゃるため、常日頃より仏法を尊崇なさっていたという。よって『日本書紀』三十巻中、一言も仏法を御批判なさることはない。誰が何と言おうと、朝廷国史は第一級の歴史書である。また仏門では、行基最澄空海らの徳の高い僧が本地垂迹説を定められたが、誰もこれについて論争をなした者はなく、難を起こしたということも聞いていない。しかしながらその後、王室が衰退なされたことで、古の事実が不明確となった。
 さて、やや昔に神道者と称する者が出てきて激しく仏法を批判し、その最も過激なものでは仏法を仇のように見ている。これもさほど昔のことではなくて、山崎闇斎という者は最も激烈に仏教を批判した人間の一人である。山崎闇斎より少し前では、伊勢の外宮の神主で度会延佳という者がいる。『古事記』を校正し直した有名な人物である。寛文六年(一六六六年)の正月とは今年(元治二年(一八六五年))から遡ること二〇六年前であるが、かの年に『大神宮神道或問』を著している。かかる著作において、「釈迦は天竺にお生まれになり、孔子は震旦に誕生なされた聖人であって、ありがたき道である」と述べられている。また同時にその著作には、「仏法は邪法とは言えない。神道の本意を知る時には、仏教のみではなく雑書までも神道の助けとなるのである」や、「今、仏道も儒道もそのままにして、忠孝の心を持ち、日本国を主として中極の道を行うならば、儒道も神道となり仏道神道となるのである」と述べられている。神主が言うことであるから仏法を忌避するような言辞も散見されるが、さりとて近年の者に比べると極めて穏やかであるといえる。さて次に有名な者は跡部良顕である。この者あたりの時代となると、次第に仏教を忌避するようになる。彼の著作には、「古の道なるものは一つ、今の道なるものは一つ、これは和漢に共通ですべてそうである。漢土の三教は儒老仏であり、我国の三道は神儒仏である。我国においては聖徳太子が三教一致を説いたが、漢土の三教は邪が二つあって、正は一つである。我国の三教は邪が一つで、正は一つである。これは幸いなことであると言える」と述べられている。このうち邪と指摘されているものは、我らが仏法である。彼らあたりから、仏を邪であると言いだしたのであろう。跡部良顕の教えを受けた者として伴部安崇がおり、彼は後に八重垣翁と名乗って『神道野中ノ清水』五巻を著した。その四巻目において仏法が我国に渡来したことを大いに嘆いており、「天下に疫病瘡が流行し、万民の多くが死亡し、天皇の在位も短くなることなどは、すべて仏法のもたらした災いであることは明白であるにもかかわらず、これは間違いであったとして破棄することもなさらずに、むしろかえって仏に祈られる。蘇我馬子は厚く仏を信じ、対逆無道をなした。聖徳太子もかかる馬子の大逆無道を御咎めにならず、むしろ贔屓なさった。物部守屋が仏法を退けたられことは、極めて忠に適ったことであったが、穴穂部皇子に与して不義に陥ってしまったことは嘆くべきである」と述べられている。度会延佳に比して、極めて激しく仏教を批判している。仏法を邪道と言うことは、彼らあたりより始まった。
 かの有名な山崎闇斎は、もともと禅僧であって妙心寺の蕣蔵主と言ったが、たちまちのうちに仏法をおし返しはねのけて顧みなくなり、最初は儒者となって山崎嘉右衛門と称した。その儒教における研鑽は優れており、後に会津藩保科正之に請われて会津に赴き、そこで神道者と論争をなし、大いに辱めを受けたことから憤って神道を唱えることとなった。最初のうちは野山に入って神書を探しており、その後に度会延佳と吉川惟足とに師事して神道の伝授を受けたと言われている。自ら垂加と名乗り一門をなして、今では垂加流と称する一派が存在する。かかる闇斎のもとから後に出た者で、仏を批判しないものはいない。篤胤の著作においても「山崎の末流の者が仏を誹ることは、まるで怨的を誹るようなものである」と述べられている。浅見絅斎をはじめ、門人の数は極めて多い。その後、渋川春海伊勢貞丈・松下郡高など、仏教を忌避する者は数多く存在するけれども、これらの説が世の中に広まったという訳でもない。すなわち、我らの仏法がそれほど害をなした訳ではないということだろう。


●所見

山崎闇斎に対する表象
 本書において山崎闇斎は、「中古神道者ト称スル者出デ来テ、大ニ仏法ヲ誹リ、其ノ甚シキニ至リテハ、仇ノ如クコレヲ視ル。コレモ久シカラヌ事ニテ、彼ノ山崎垂加ト云ヘル者、最モ甚シキニ似タリ」(115頁)と排仏論を説く代表的な神道者として扱われている。確かに闇斎が排仏を論じたことに関しては相違ないが、さりながら例えば闇斎における代表的な排仏の書とは『闢異 』*1であり、これは「三十歳『闢異』を著す。綱常の道を謂ふのみ。」(山田慥斎『闇斎先生年譜』)*2と述べられるように、初期の闇斎が仏教を排し朱子学の立場を明確にする上で著した著作である。竜温が、かかる闇斎の著作を通読していたか否かという問題には立ち入らないとして、晩年の闇斎が神道へ傾斜するとはいえ、彼が朱子学をもって一定の知名度を有していたことは確かであるはずである。にもかかわらず竜温は、闇斎における朱子学を「初儒者トナリ」(116頁)と、神道に至る系譜に位置づけて小さく扱うのみである。されば闇斎が、当該期において神道者としてのみ認知されていたのかといえば、決してそういう訳でもない。やや時代は下るが、昌平黌において佐藤一斎に師事した中村正直は明治一六年(一八八三年)以下のごとく述べている。

徳川氏ノ時ニ至リ、東照宮首トシテ儒教ヲ尊ビ、惺窩、羅両先生ヲ礼待優遇シ、コレヨリ文運復タ大ニ開ケ、封建ノ政ヲ行ヒ、列国ノ士皆世録ニシテ邑ヲ其土ニ食ミ、君臣力ヲ合セ、文武ヲ兼修セザルナシ。〔中略〕コノ時代ニ当リ、山崎闇斎山鹿素行、熊沢蕃山、木下順庵、伊藤仁斎、同東涯、中村綃斎、貝原益軒、浅見絅斎、梁田蛻粠、鵜飼金平、後藤松軒、荻生徂徠、祇南海、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、三輪執斎、物門ノ諸子等、後先名ヲ儒林ニ轟カシタリ。〔中略〕和漢古今ノ間、カク迄ニ学好マセ玉ヒシ御事未ダ聞及ビシ所モアラズ。(中村正直「古典講習科乙部開設ニツキ感アリ書シテ生徒ニ示ス」)*3

ここで正直は東京大学古典公衆科乙部開設に際して、徳川時代における著名な儒者を提示することで「漢学」の重要性を説く訳だが、かかる一連の儒者の最初に闇斎が登場している。すなわち闇斎が、後世においても儒者として認識されていたことは間違いない。かく見てくれば、幕末の真宗僧であった竜温が闇斎を排仏を説く神道者としてのみ取り上げているとは、当該期の文脈においていかに位置づけられるのであろうか、という疑問を呈することができる。
 また浅見絅斎は神道説に関わりながらも、一方で「浅見安正曰〔中略〕「然れども世の神道を談ずる者は、往往浅陋に堕して奇怪に入る。是風土気習の局にして其本に反するを知らざる故なり 」」(山田慥斎『闇斎先生年譜』)*4と一定神道とは距離を取っている。しかしながら竜温は「只今ニ垂加流ト名ケテ一派アリ」(116頁)とした後、「浅見絅斎ヲ初メトシテ、門人数多アリ」(117頁)と述べており、絅斎をも垂加神道の内に位置づけ、神道者による排仏論として取り上げているように思われる。かかる事例を勘案すれば、闇斎門=神道者という認識が竜温において一定確立していると考えられそうである。

舎人親王に対する捉え方の相違
 本書において竜温は、「日本記(〔ママ〕)ヲ選ビ給ヒシ舎人親王、天武帝ノ御子ニテ在セバ、平生ニ仏法ヲ尊ビ給ヒタルコトナリ。故ニ、日本紀三十巻ニ、一言モ仏法ヲ破シ給フトコロナシ。」(115頁)と舎人親王は仏教に対して擁護的な立場であったという理由から、肯定的な評価を下している。しかるに竜温が本書において批判の対象としている山崎闇斎もまた、舎人親王に対しては肯定的な評価を付与している。*5例えば闇斎は、明暦三年(一六五七)正月に舎人親王が合祀されているとおぼしき藤森神社に参詣している。

是歳春正月先生大和鑑を作さんと欲し、将に起草に及ばんとす。藤森祠に謁し、詩作して曰く、「親王の強識群倫に出でたり。端拝廟前感慨頻りなり。遠として知り難し神代巻。心誠に求め去らば豈因無からんや 」。(山田慥斎『闇斎先生年譜』)*6

闇斎は『倭鑑』*7を著そうとして、『日本書紀』「神代巻」を著した舎人親王が合祀されていると考えられる藤森神社に参詣したのであり、ここに闇斎における舎人親王に対する評価を窺うことができる。また闇斎は、「神代巻」から「土金ノ伝授ト云事ゾ。此ガ先神道一大事ノ伝ゾ。」(山崎闇斎『神代巻講義』)*8と語られることとなる、「敬」のアナロジーとしての垂加神道における「土金の伝」を見出している。

夫れ我が神道の宗源は土金に在りて、其の伝は悉く此の書に備れり。〔中略〕蓋しこれを聞くに天地の間、土徳の翕聚めて中に位するなり。四時此に由て行ふ。百物此に由て生まる。此れ倭語「土地之味(ツツシミ)」「土地之(ツツシ)務(ム)」の謂ひ、以て敬の字を訓するなり 。(山崎闇斎『藤森弓兵政所記』)*9

竜温・闇斎ともに解釈の仕方は異なるとは雖も、舎人親王が『日本書紀』を著したという歴史的事実に肯定的な評価を与えているという点においては共通している。かかる事例から推察するに、両者とも自らのタームによりながら、徳川日本に存在する歴史的事実に対して解釈を施そうとしていることがわかる(無論、闇斎は「習合」「附会」を忌避し「妙契」を唱えるが)。

○度会延佳
 竜温は度会延佳における「仏法ハ邪法トハ難云。神道ノ本意ヲ知リタル時ハ、仏教ノミナラズ雑書マデモ神道ノ羽翼トナル事也。」(115頁)や、「今、仏道モ儒道モタゞソノ儘ニテ、忠孝ノ心ヲ以テ、日本国トシテ中極ノ道ヲ行フ時ハ、儒道モ神道トナリ、仏道神道トナル也」(115頁)なる言辞を引用しながら、排仏を唱えない神道家として延佳を高く評価している。されば、かかる言辞をもってする延佳の思想とはいかなるものだったのであろうか。以下ごく簡単に概観しておくこととする。*10延佳は徳川社会の成立に伴い、従来ごく限られた神職にのみ共有されていた神道を万人に開く方向性へと傾斜する。すなわち神道を「祭」と「祈」に分離させ、「祈」をなす「心」は天御中主によって「上一人」から「下万民」に至るまで分有されていると言うことで、神道を「心の教説」として再編していくのである。その際に、自らの論理を正当化し他の教説に対する優位性を図る上で、儒教・仏教的な要素を自らのタームによりながら取り込んでいく。よって延佳において三教一致的な性格を帯びることとなるのではあるが、さりとてこれは神道者としての優位性を保つためのものであり、あくまで神道者としてのアイデンティティーは堅持されている。すなわち延佳が、教に対して、竜温の視点からすれば仏教に対して、単に擁護的であった訳ではないという理解を持つことができる。
 繰り返しを恐れず述べるなら、竜温が積極的に評価する「儒道モ神道トナリ、仏道神道トナル也」のごとき言辞をもってする延佳とは、単に儒教・仏教を肯定していた訳ではなく、むしろこれらを自らの論理の内に包括し、分節化することによって「心の教説」としての優位性を保とうとしたものであったことがわかる。竜温が度会延佳をいかに読んだかは、本書における彼の言及からのみでは判断しかねるが、上述のような点には留意しておく必要があると思われる。

文責:松川雅信

*1:これに関しては、高橋文博『近世の心身論』(ぺりかん社、1990年)、石黒衛「山崎闇斎の仏教批判」(『日本思想史研究会会報』日本思想史研究会、1994年)などに詳しい。

*2:日本古典学会編『山崎闇斎全集』4巻(ぺりかん社、1978年)391頁。「三十歳。著闢異。謂道綱常而已。」

*3:松本三之介・山室信一校註『日本近代思想大系10 学問と知識人』(岩波書店、1988年)201〜203頁。

*4: 前掲註2書、427頁。「浅見安正曰。〔中略〕然世之談神道者。往往堕浅陋而入奇怪。是局於風土気習。而不知反其本故也。」

*5:近藤啓吾『続山崎闇斎の研究』(神道史学会、1991年)、田尻祐一郎『山崎闇斎の世界』(〔ソウル〕成均館大学校、2005年、後に、ぺりかん社、2006年)などを参照。

*6:前掲註2書、394頁。「是歳春正月先生欲作大和鑑。及将起草。謁藤森祠。作詩曰。親王強識出群倫。端拝廟前感慨頻。遠難知神代巻。心誠求去豈無因。」

*7:「既に而して其の稿を焼く。蓋し意を満たさざる有るを以てなり。」(山田慥斎『闇斎先生年譜』前掲註2書、394頁。「既而焼其稿。蓋以有不満意也。」)と述べられているように、『倭鑑』は闇斎自身によって焼却され完成をみることはなかった。

*8:平重道・阿部秋生校註『日本思想大系39 近世神道論 前期国学』(岩波書店、1972年)143頁。

*9:日本古典学会編『山崎闇斎全集』1巻(ぺりかん社、1978年)60〜61頁。「夫我神道宗源在于土金而其伝悉備於此書〔中略〕蓋聞之天地之間土徳之翕聚而位於中也四時由此時行焉百物由此而生焉此倭語土地之味土地之務之謂所以訓敬字也」

*10:ここでは、樋口浩造『江戸の批判的系譜学』(ぺりかん社、2009年)を参照した。