竜温「総斥排仏弁」―「二、別挙近世排仏」(p108)〜「挙テ論ズル」(p110)まで

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〈現代語訳〉
 二に、とりわけ近年の排仏家を挙げるとは、上に列挙した四つのうちでも、近頃の儒者神道者の二種類を挙げて論ずるものである。はじめに挙げた地球天文の説に関しては、今ここで詳述することはできない。また、キリスト教に関しては、別に『闢邪護法策』と名づけて二巻を著したので、これを参照されたい。天文の説に関しては、その種類極めて多く、例えば、蓋天の説・宣夜の説・渾天の説・穹天の説・安天の説等、様々あるけれども、とりわけ近頃、仏法に大害をなすものは地球の説である。これは、イスラム教国に起源があり、その後、西洋人によって精緻化されたと言われている。明の万暦二十年〔一五九二〕頃、はじめて伝来しており、本来はキリスト教を広めるためのものであったのだろう。明朝にあっても、儒者・仏者は大いに地球の説を排撃している。かかる事情は、水戸より刊行された『明朝破邪集』、三縁山〔江戸芝の増上寺〕より刊行された『闢邪集』から窺い知ることができる。後に天文における微細なところに引用されて、地球の説は世に知られることとなった。また地球の説は、新旧両説に分かれている。『天経或問』などは旧説で、天がめぐり、地は中心にあって動かない〔=天動説〕と述べられている。一方、新説は地動を説き、明の嘉靖二十年〔一五四一〕頃、西洋の天文家ガリレオコペルニクスを指すか〕という者によってはじめて提唱された。大千里鏡を作って見てみると、太陽は中心にあって動かず、数多くの星々が太陽の周囲をまわっている。おおかた十二の星があり、地球もそのうちの一つである。一つの「世界」ごとに、一つの太陽があり、目に小星と映るものは、すべて遠方の太陽であると述べられている。誠に怪しい説である。そうであるから、算術・暦数によく合致していると言って今日よく用いられる地動の説、あるいは近頃伝来した『地球ノ説略』『談天』等は、すべてかかる怪しき説である。これらはすべて邪説であることを知らねばならない。尚、今詳述することはできない。
 ここで悲しむべきは、須弥山世界観を信じる者が仏者のみとなっていることである。近頃の儒者神道者もすべて、この地球の説が「世界」の当然であるかのように論じ、口を開けば、「五大州地球」と言っている。キリスト教は、勿論この説を用いている。地動の説となれば、キリスト教にも、儒道・神道にも、差し支えるところが出てくるが、みなかかる地球の説を用いている。近頃の神道平田篤胤などは、この地動の説を用いており、「『古事記』の文は、すなわち地動の説である」と論じている。私は、三十余年前に江戸において、町中で地球の説を往来の者に説く様子を見た。このたび刊行された『江戸大節用海内蔵』と名付けられた書物の一昨年刊行されたものには、はじめて地球の図が掲載された。これらも悲しむべきことである。
 さて、キリスト教などは、四年前〔文久三年、一八六三〕に横浜に天主堂を建て、講釈をはじめたが、三十余人のキリスト教国の者が入牢することとなったと聞いている。また、近頃長崎では、月に五日ほど説法を行い、キリスト教国の者がひそかに同席して、大いに喜び、ドロ銀一枚を与えたそうだ。また、医者と称する者の多くはキリスト教の僧侶であり、会津の書生に近づいた三人の医者が、別れに際してキリスト教の経典一巻を送ったらしい。このように、吾国にキリスト教を広めようと画策する勢いが盛んなのは明白であり、是ハ実ヲ刻スレバ、吾国の大敵であり、余力があれば、しかと心得て防がねばならない。ここでは、右の地球の説、キリスト教の説を概略し、近頃の排仏家として論じた。



〈所見〉
?「此頃ノ儒者神道者モミナ、コノ地球ガ世界ノ当リ前ノ如ク談ズル」(109頁、10〜1行目1)
→当該期における儒者神道者一般は、「地球」をいかに語り、いかなる「世界」観を有していたのか?


徳川時代前期の儒者の場合:林羅山(1583〜1657)
「かの円模の地図を見る。春曰く、上下あることなしや。干〔不干斎ハビアン(1565〜1621)〕曰く、地中を以て下となす。地上亦天たり。地下亦天たり。〔中略〕春曰く、此の理不可なり。地下あに天あらんや。万物を観るに皆上下あり。彼の上下なしと言うが如きは、これ理を知らざるなり。*1」(林羅山「排耶蘇」)

「春曰く、天主、天地万物を造ると云々。天主を造る者は誰ぞや。干曰く、天主始めなく終りなし。〔中略〕春曰く、理、天主と前後あるか。干曰く、天主は体なり。理は用なり。体は前、理は後なり。春、面前の器を指して曰く、器は体なり、器を作る所以は理なり。しかればすなわち理は前にして天主は後なり。*2」(同上)

「余曰く、吾天地の間を観るに一物として上下あらざるはなし。彼、中を以て下となす。何ぞ物に各上下あるの理を知るに足らんや。もし人ありて、隕る石何れの処に止まると問はば、必ず落つるところに落つと曰はんのみ。*3」(同上)

「耶蘇者曰く、天は円なり、地もまた円なり。余謂らく、動あり、静あり、方円あり。物みなしかり。天地を甚しとなす。動く者は円に、静かなる者は方なり。その理かくの如し。もし彼の言の如くんば、すなはち何ぞ方円と動静あらんや。*4」(新井白石「西洋紀聞」)
⇒「地球」を前提として、詳細な地誌的解説を行う。しかしながら、白石は一方で「彼方の学のごときは、たゞ其形と器に精しき事を。所謂形而下なるもののみを知りて、形而上なるものはいまだあづかり聞かず。さらば天地のごときも、これを造れるものありといふ事も、怪しむにはたらず。*5」(同上)と述べるように、西洋の地誌的・天文的な知識は、あくまで儒教的タームによる「世界」観を補強するものに過ぎず、主要な関心の俎上に上っていた訳ではない。*6およそ、西川如見(1648〜1724)による「世界」観もこれに類すると思われる。


※本書で言及される国学者の場合:平田篤胤(1776〜1843)
 ・篤胤における「世界」観=「天」「地」「泉」
「此時いまだ天も地も有ることなく、たゞ大虚空なり。〔中略〕さてその大虚空に、この三柱神の坐ませるなり。*7」(平田篤胤霊能真柱」)
                ↓
 「この一物の虚空に生初めしも、其が分りて天・地・泉と成り *8」(同上)

 加えて、「顕事」と「幽事」という区分=死後の霊魂の安心。*9
 「天照大御神と、須佐之男大神とも、また天と泉とに相分れ給ひ、今また各その御子相分れて、終にこの顕国の、幽冥と顕明とを所治看し別賜ふことゝ永く定まり*10 」(同上)

 尚、「幽事」が「顕事」と全く分かれて存在する訳ではない。
 「抑、その冥府と云ふは、此顕国をおきて、別に一処にあるにもあらず、直にこの顕国の内いづこにも有なれども、幽冥にして、現世とは隔り見えず。*11」(同上)

 ・地動説に基づく「地球」説。
 「「そも/\大地は虚空に懸りて、円体なる物なれば、何方を上とも下とも、側とも云べきにあらず。〔後略〕〔服部中庸『三大考』の引用〕*12」(同上)

 「実ハ遠西人製レル、測算ノ器ヲ以テ精クコレヲ量ルニ、日径三十二万九千里余リ、月径九百三十八里余リ、地径三千六万九千六百里余リ、月ノ地ヲ離ルゝコト六十万三千百里余リ、ト見ユル也。然レバ日径ハ地径ヨリ大ナルコト九十六倍余リ、月径ヨリ大ナルコト三百五十一倍余リ。サテ地径ハ月径ヨリ大ナルコト三倍半余ニアタルナリ。*13」(同上)
 
 「さて、しか正しく三つと成て、天つ日は、高く上に位を定めて、動き転ることなく、地は元よりのまゝに漂旋り、月泉は地の底に成て、もと地につきて、漂ひ旋れる物なるけにや、断離れて後もその如く、地に属て旋ること、今の現に見るが如し。*14」(同上)

・西洋の知識を神話における旁流へと追いやることで、自らの正統性を生産。
「遥西の極なる国々の古伝に、世の初発、天神既に天地を造了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟といひ、女神の名を延波といへるが、此二人の神にして、国土を生りといふ説の存るは、全く、皇国の古伝の訛りよ聞えたり。*15

 「また、予がこの天日は動かで、地と月とは、旋るといふ説を、外国人の説に因れりなどな思ひそよ。此は、古伝の趣に灼然く見えたる事実によりて、考出たるなるを、その適に外国人の説に似たるは、彼が強に考たる説の、古伝に合るにこそあれ、我が説の彼に似たるは、非ずなむ。*16
 ⇒地動説に基づく「地球」説を取りこみながら、独自の神道的タームによる「世界」観を構成。


?「サテ又、耶蘇教ノ如キハ〜如此吾国ニ勧ント欲スル勢ヒ明ナリ」(109頁17行目〜110頁3行目)
 →実態として、キリスト教徒が現れる時期の排耶論。

 ※徳川時代中期におけるキリスト教認識の一例。
「ダイウスト云ハ、帝王(〔ママ〕)ト書クモノゾ、テイシユト云音カラ、ダイウスト転ジテキタモノゾ、天師トモカク、天主トモ書ク、皆ダイウスノコトゾ、古キ宗旨デ、ヤハリ仏法ノ末デ、丁度日蓮宗一向宗ノ云ヤウナモノデ、天命ノコトヲ云テ教タモノゾ、ソレデ天文ノコトガ多ク云テアル、帝王(〔ママ〕)ノコトガ五雑俎ナドニ云テアルガ、今ノ五雑俎ハソコヲヌイテアルゾ、西僧璃(〔ママ〕)瑪寶、帝王(〔ママ〕)僧ゾ、仏祖統記ニアリ、西僧ト云ハ天竺僧ノコトゾ *17」(若林強斎「望楠所聞」)
 ⇒若林強斎(1679〜1732)において、キリスト教はテクスト上の存在でしかない。具体的存在として、キリスト教徒が現れることに見出される思想史的意味は?


?「吾国ノ真ノ大敵、此等モ余力アラバ能ク心得オヰテ防ガネバナラヌ」(110頁、3〜4行目)
→攘夷思想と排耶論、あるいは護国思想・護法思想等との関係は?

 ※「維新期には、一般に護国意識が強く、それは夷敵(〔ママ〕)思想と表裏をなすものとみてよいが、この時期の仏教の護法論とは、このような護国意識、夷敵思想と結合して発展した。そして夷敵(〔ママ〕)思想では、とくにプロテスタントの渡来に畏怖しつつ、「邪教」禁遏の使命感を喚起して、従来の排耶論からさらに進んで、防邪意識への発展というかたちをとった。〔中略〕なおここで注意すべきことは、このような護法・護国・防邪の一体論は、実はそのまま明治維新後の護法論としても通用したことである。*18」(柏原祐泉「護法思想と庶民教化」)
 ⇒果たして、竜温のような思想が、維新以後の護法論と連続性を有しているのか?

〈参考文献〉
・海老沢有道ほか校註『日本思想大系25 キリシタン書 排耶書』岩波書店、1970年。
・田原嗣郎ほか校註『日本思想大系50 平田篤胤 伴信友 大国隆正』岩波書店、1973年。
・柏原祐泉ほか校註『日本思想大系57 近世仏教の思想』岩波書店、1973年。
松村明ほか校註『日本思想大系35 新井白石岩波書店、1975年。
・澤井啓一『〈記号〉としての儒学』光芒社、2000年。
子安宣邦平田篤胤の世界』ぺりかん社、2001年。
・金本正孝編『強斎先生語録』渓水社、2001年。
・荒川紘『日本人の宇宙観』紀伊国屋書店、2001年。

文責:松川雅信

*1:海老沢有道ほか校註『日本思想大系25 キリシタン書 排耶書』岩波書店、1970年、414頁。

*2:前掲註1書、415〜416頁。

*3:前掲註1書、417頁。

*4:)前掲註1書、417頁。)」(同上) ⇒理気論によりながら、「天円地方」の「世界」観を提示する。 ※徳川時代中期の儒者の場合:新井白石(1657〜1725) 「大地、海水と相合て、其形円なる事球のごとくにして、天円の中に居る、たとえば、鶏子の黄なる、青き内にあるがごとし。其地球の周囲九万里にして、上下四旁、皆人ありて居れり。凡其地をわかちて五大州となす。一つにエウロパ〔後略〕(( 松村明ほか校註『日本思想大系35 新井白石岩波書店、1975年、27頁。

*5:前掲註5書、19頁。

*6:「西洋=キリスト教的な〈世界〉像が紹介した「地誌」も、夷=野蛮を詳細に描くための素材としての意味はあったにしても、この中国を中心化した一元的な〈世界〉像を解体へと導き、多元的な〈世界〉像をもたらしたり、新たな一元的な〈世界〉像を構築するようなものではなかった。」(澤井啓一「徳川日本における〈世界〉像の変容」、初出、『歴史と理論』2号、歴史と理論研究会、1995年、後に、澤井啓一『〈記号〉としての儒学』光芒社、2000年所収、213頁)。

*7:田原嗣郎ほか校註『日本思想大系50 平田篤胤 伴信友 大国隆正』岩波書店、1973年、18頁。

*8: 前掲註8書、19頁。

*9:子安宣邦平田篤胤の世界』ぺりかん社、2001年。

*10:前掲註8書、80頁。

*11:前掲註8書、109頁。

*12: 前掲註8書、35頁。

*13:前掲註8書、71頁。

*14:前掲註8書、89頁。

*15:前掲註8書、32頁。

*16:前掲註8書、89頁。

*17:金本正孝編『強斎先生語録』渓水社、2001年、104頁。

*18:柏原祐泉「護法思想と庶民教化」(柏原祐泉ほか校註『日本思想大系57 近世仏教の思想』岩波書店、1973年、545頁〜547頁)。