吉田俊純『寛政期水戸学の研究―翠軒から幽谷へ』

寛政期水戸学の研究―翠軒から幽谷へ

寛政期水戸学の研究―翠軒から幽谷へ

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大日本史』編纂事業を遂行する過程で水戸藩に起こった学問。一般的には水戸藩に起こった学問全体を指すもののように考えられているが、一七世紀後半から一八世紀の三〇年代にかけて『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、一八世紀末から幕末にかけて、修史事業は継続しながらも、主力はむしろ当面する現実社会の課題解決を目指した後期と間には、学風に無視しがたい相違が認められる。*1

このように、前期と後期に区分して捉える水戸学の一般的な理解は、尾藤正英の一連の研究に端を発するものであると言えよう。*2尾藤は前期から後期への変化として、「合理から非合理へ」あるいは「普遍から特殊へ」という二項対立による移行過程を示しており、その後の議論もその大枠に従っていると思われる。無論、前期と後期との間に思想の差異が確かに見られ、先学が明らかにしてきたことには十分な意義がある。しかし、この前期と後期を区分して分析する手法にはいくつかの問題があると考えられる。

そのうちの一つが、前期と後期との思想的差異を強調するがあまり、前期と後期それぞれにおいての差異が重視されていないということである。*3また、そのこととも関連するが、前期と後期との間の期間をどのように理解するのかという点も、もう一つの問題点として挙げられよう。特に、後期水戸学の形成にも関わったと評価されるうちの1人である立原翠軒(一七四四〜一八二三)の思想などに関しては、具体的な論点が提示され議論が展開されることも少なかったように思われる。*4こうした水戸学研究の問題点を扱おうとしているのが、ここで紹介する吉田俊純の『寛政期水戸学の研究―翠軒から幽谷へ―』(吉川弘文館、二〇一一年)である。水戸学研究に新たな展開をもたらしうる貴重な研究成果であると言えるだろう。

二 

以下、本書の構成を掲げ、各章の紹介を行う。

序章 本書の課題
第?部 水戸学と立原翠軒
第一章 翠軒小伝
第1節 出自
第2節 修学時代
第3節 『大日本史』編纂
第4節 学風
第二章 寛政元年の廃志提案
第1節 翠軒廃志提案の問題点
第2節 直前の状況
第3節 廃志提案書の紹介
第4節 廃志提案書の検討
第5節 翠軒の説得
第6節 翠軒の譲歩
第三章 寛政七年の上洛と藤田幽谷の書名更改
第1節 寛政期『大日本史』編纂の進展と翠軒上洛の問題点
第2節 正徳五年の命名
第3節 享保年間の献上問題
第4節 翠軒の上洛
第5節 藤田幽谷の書名更改
第四章 翠軒の失脚
第1節 享和三年復古の問題点
第2節 藩主治保と編纂事業
第3節 翠軒の失脚
第4節 復古とその後の編纂事業
第?部 水戸学の展開
第一章 水戸学の神道導入と国学・徂徠学との関係
第1節 神道導入の問題点
第2節 享和三年の神道導入と思想的背景
第3節 藤田幽谷にみる天と祖
第4節 神州と国体
第5節 神天合一思想の成立
第二章 寛政と文化の封事にみる思想的展開
第1節 寛政期水戸学論の問題点
第2節 封事の背景
第3節 「丁巳封事」の分析
第4節 文化の封事
第5節 転換の理由と展望
第三章 水戸学と伊藤仁斎
第1節 系譜的関係と問題点
第2節 仁斎学の紹介
第3節 仁斎学の受容
第4節 展望
第四章 幽谷小伝
第1節 出自と基本的観点の確立
第2節 改革を求めた青年期
第3節 挫折と理論化
第4節 未完の思想家
終章 水戸学、乱れた論旨のなかから

序章では、水戸学の概要を説明した後、副題にもある通り、水戸学研究において本書が課題とする点を整理している。その課題とは、「一様の思想とみなされがち」(三頁)な水戸学を、寛政期から天保期にかけて「多様化」していった思想として読み直すことにある。その具体的事例として、水戸学の「基本」「基礎」として藤田幽谷(一七七四〜一八二六)の思想を設定する、菊池謙二郎や尾藤正英の議論を批判的に取り上げている。このように吉田の問題意識は、水戸学とは「深化する危機の下で思考し実践して、国体論の国家論を構築」(五頁)した思想であるにもかかわらず、その「形成過程と思想的背景は、これまで具体的に十分に研究されることがなかった」(同頁)ことにあるのである。

以下、本書は大きく二つに分けて論を構成している。すなわち、「第?部 水戸学と立原翠軒」と「第?部 水戸学の展開」である。第?部では立原翠軒をめぐる議論が、第?部では藤田幽谷をめぐる議論が、それぞれ展開されている。

まず第?部第一章は、第?部で主に取り上げられる翠軒の事績が紹介されている。そこでは、翠軒が天明七年(一七八七)に「天下之三大患」、すなわち朝鮮使聘礼、北夷、一向宗に関する危機意識を松平定信に提言していたこと、『海防集説』*5 の編纂をもって寛政以降の蝦夷周辺の動向を注視していたことが指摘されている。

第二章では、寛政元年に翠軒が提出した廃志提案、すなわち紀伝体である『大日本史』の「志」の部分の編纂を廃止しようとした議論を分析している。吉田自身が指摘しているように、この「廃志提案書」は従来の水戸学研究においてはほとんど使用されなかった史料であり、これまで放置に近い状態にあった翠軒の議論を、今後の研究において展開できる可能性を持っている。それを紹介したという点において、吉田の仕事の意義はきわめて大きいと言える。

第三章は、正徳期から寛政期にかけての『大日本史』の書名や献上に関する議論が展開されている。特に、第4節では重要な論点が提示されている。それは、翠軒が藤貞幹(一七三二〜一七九七)を通して、「朝廷第一の有職故実家」(一〇九頁)であり光格天皇に近い位置にもあった裏松光世(一七三六〜一八〇四)に接点を持っていたという点である。南朝正統論を評価した光世と朝廷との議論において、「南北朝の問題で朝廷がこだわった点は、北朝五主が帝王として扱われているか否かであった」(一一三頁)という指摘は、興味深く思われる。私は、「革命思想としての南朝正統論」*6とともに『大日本史』及び前期水戸学は成立したが、元禄期から正徳期にかけて、易姓革命に関して肯定的な議論も否定的な議論も存在する「易姓革命論の抗争の場」に変容していくという見通しを持っている。その点で、前期水戸学を北朝正統論であったと捉える吉田とは大きく異なる見解を持っていることになる。*7しかし、幽谷の「皇帝陛下、天祖の正統を紹ぎ、神明なる其の徳、八方に照臨し、聖人の大宝を守り、寛仁の政、群生を子育し、古を稽へ事を立て、己を恭うして為すなく、文化の号を宇内に播く」*8 という光格天皇についての発言からは、北朝を正統として認識していることが窺える。南朝正統論から「易姓革命論の抗争の場」、そして北朝正統論へと変容したと理解するのは早計に過ぎるだろうが、翠軒が「朝廷第一の有職故実家」と交流を持っていたことは、やはり貴重な史実であると考えられる。

第四章では、翠軒が失脚していった様子が、編纂事業に積極的に参加するようになった藩主治保との信頼関係、廃志提案の議論の展開過程などと関連づけながら叙述されている。また、失脚後は幽谷主導で編纂事業が展開し、「紀伝」と「志表」の優先関係が変容していたことを明らかにしている。

次に第?部第一章では、享和三(一八〇三)年における水戸学への神道の導入(=神代叙述の加筆)を、国学および徂徠学を経由点として論じられている。特に、尾藤正英*9子安宣邦*10 の議論では徂徠学の影響のみが重視されていることを批判し、本居宣長(『古事記伝』や『玉くしげ』)の影響を再評価しようとしている。その際に注目されているのは、幽谷における「『天照絶対化』の思想」(一九四頁)であり、これが「天壌無窮の神勅の採用」(同頁)へと向かったと、吉田は指摘している。また、幽谷の使用する「神州」と「国体」の2つの用語への蒲生君平の影響も指摘しており、そこから「皇祖天照は天であるとの天祖概念、神天合一思想」(二一四頁)が成立したと分析している。子安の分析によると、「天祖」の成立は会沢正志斎(一七八二〜一八六三)においてであるが、吉田はこの成立を幽谷に見られることを主張している。

第二章は、水戸学における徂徠学的傾向から朱子学的傾向への変容が、幽谷の封事を通して分析がなされている章である。変容が生じた理由は、以下の三点に集約される。すなわち、朱子学的名分論の立場から道徳的批判を行う『大日本史』紀伝の編纂に従事したこと、無能な大臣や反改革派を目の当たりにしたこと、大義優先という朱子学的な正心の持ち主であることの三点である。

第三章においては、主に伊藤仁斎(一六二七〜一七〇五)から正志斎(『下学邇言』)への影響が論じられている。それは第三節で特に詳論されており、「経典観」「一元気と活物」「性と道」「仁孝一本の義」「道徳観」の各側面での影響が指摘されている。*11例えば「一元気と活物」では、仁斎の「活物」という概念が、朱子学的な宇宙生成論(理気二元論)を批判した「一元気論」とともに正志斎に受容されたことが指摘されている。ただし、正志斎は「活物の霊妙さ」(二六七頁)を神道と結びつけた点で仁斎とは異なることも言及されている。
 第四章は、第?部の中心として論じられてきた幽谷の事績の叙述となっている。また、第?部で論じられてきた各論が集約されており、第?部の総括としても読むことができるだろう。ここでは、幽谷における名分論の変容過程が整理されていることが特徴的だろう。すなわち、「徂徠学的、政治的に職分を果たすことを求めるもの」(三一二頁)から「朱子学的、道徳的行為の善悪を問題にするもの」(同頁)へ、さらに「国体論を形成する尊王絶対化、世界に冠たる日本を説くもの」(同頁)へという変容である。

最後に終章では、翠軒や幽谷の非論理性が強調され、そのような両者の能力不足が『大日本史』の完成を妨げたと分析している。それとともに、水戸学が受容されるように配慮されているもっとも重要な点は「感性」(三二二頁)であるとも指摘されている。またそうした配慮によって「本音とたてまえ」(三二三頁)が生じたために、多少の矛盾が存在しているという視座が、水戸学研究には必要であるとも説いている。

三 

本書で評価すべき点は上記に示しているので、以下では私が本書に抱いた疑問をいくつか挙げる。しかし、その前にまず申し述べておきたいのは、私が本書の書評をした理由である。本書は、いかなる水戸学研究においても必ずと言っていいほど言及される尾藤正英の「水戸学の特質」を「水戸学の性格」(二八三頁、傍点は評者。以下同様)と書き誤っている。また注六で指摘したように、吉田は自身の著書への批判を参照できていないばかりか、水戸学研究における近年の研究動向も把握できていないと思われる(もっとも、吉田は二五三頁で「水戸学と仁斎学に関して、まともに分析した」論考がないと言っている。このきわめて曖昧な表現を吉田の逃げ道と判断するかどうかは読者に委ねよう)。この不備にもかかわらず本書をわざわざ取り上げたのには、私なりの理由があるのである。それは、昨今の思想史研究の方法論への批判と関わっている。*12すなわち、本書には思想史研究が、ひいては水戸学研究が未だに孕んでいる問題が、わかりやすく表出しているのではないかということである。そしてその批判は、一定程度分野(ディシプリン)化している日本思想史の各分野への批判として向けるべきであり、そうすることで、ややもすれば自己陶酔に陥りがちな議論を切開しなければならないのではないかということである。無論、このように「分野」として把握することには様々な批判が想定しうるが、現況としてはこのように把握する方法が日本思想史研究においては大勢を占めていると、私には思われるのである。そうであるとすれば、むしろその大勢に敢えて従った上で批判を行った方が、たとえ水戸学研究という範囲であっても、議論をより展開できるだろう。これが、私が本書を書評の対象とした理由である。以下、二つの疑問点を挙げる。

第一に問題としたいのは、吉田が「多様化」した思想として水戸学を読むことについてである。「多様化」という言葉には(吉田の意図にかかわらず)その前段階が「単純」であったという前提が含意される。吉田は言及していないが、この前段階とはおそらく前期水戸学を指すことになるだろう。この点については、前期水戸学を単純化してとらえているのではないかという批判も可能だが、それは措こう。ここで確認しておきたいのは、「多様」性を持つ思想として水戸学を捉えようとする視座である。私はこの点に関しては首肯しうるものであると考えている。では、この視座が分析において反映されているのかといえば、甚だ疑問である。それは、吉田の各思想家へのアプローチの方法に関わっている。最も端的にそれが示されるのは終章である。例えば、確かに吉田は、幽谷の思想の変容過程を分析している。しかし既に述べたように、「翠軒にしろ幽谷にしろ、きわめて粗雑な議論をする人」(三一九頁)、すなわち非論理的な人物だと結局は捉えているのである。このような個性と思想とを関連づけてアプローチすることには問題点はないのだろうか(そもそも、両者が非論理的であるという個性の評価も疑問であるが)。私は、吉田のように個性との相関で思想を分析してしまう方法が、水戸学にある「多様」性を抑圧しているのだと考えている。その結果、吉田が自身の問題意識を自らの手で葬るという事態に直面しているように思われるのである。それよりもむしろ、ある思想空間において、彼らのその場その時の発言の持った意味を問うた方が、水戸学の「多様」性を示すことができるだろう。無論言うまでもなく、「多様」性を指摘するだけではさほど意味はない。さらに一歩踏み込んで、その「多様」性がいかなる論理を生成したのか、その論理は他の諸言説との関係においてどのような機能を果たしたのか、といった点まで問わなければ、水戸学の持つ意味は明らかにしがたいのではないか。*13

第二は、吉田自身が水戸学者と化してしまっている側面があるのではないかという疑問である。この疑問は、第一の疑問と重なるところもあるが、本書の各所で水戸学者における光圀の理解の正否を問う吉田の姿勢から由来するものである。この点が典型的に見られるのは、第?部第二章第4節の「廃志提案書の検討」である。光圀の意志の当否をめぐる水戸学者の議論に吉田が積極的に参加していることを示す箇所を、いくつか引用してみよう。

大日本史』は『史記』を模範として編纂されたが、(中略)光圀の編纂事業全体は、さらに溯って司馬遷が模範とした孔子の編纂事業、六経を模範としているのである。光圀は史臣たちが考えた以上の、また今日まで考えられてきた以上の雄大な編纂事業を展開したのである。(五七頁)

幽谷は複雑な光圀の編纂事業を正しく理解していなかったために(われわれにとってもそれは難しいが)、同じと強引に解釈したのである。(六一〜六二頁)

翠軒の主張、光圀は紀伝を主として、志を付ける意志はなかったとの論拠とするには、あまりに説得力に欠ける不適切な引用というほかない。(六三頁)

これらはいずれも、吉田が光圀オリジナルの意図を理解しようと努め、翠軒や幽谷にはそれが理解できていないと論難しているかのような印象を与えるものである。これはいかなる事態をもたらすのか。吉田の明確な意図は不明だが、これらの発言から想定されるのは「私こそが光圀の意図を正確に理解した継承者である」という自負であろう。そしてそれは、「他の誰にも光圀の意図は理解できまい」という、きわめて自己閉塞的な議論へと収束されるだろう。こうした議論は、光圀の死後において、光圀の言説をもとに彼の意志を正確に『大日本史』編纂事業に反映させようとした水戸学者の有り方そのものである。その際には、当然ことながら光圀の意志の理解や無理解が議論の争点となっている。上記の引用箇所でなされているのは、このような水戸学の再生である。このようにして吉田は水戸学者となるのである。吉田の意図はともかくとしても、光圀の理解の正否を問う姿勢には、このような帰結が待ち受けているのではないかと私には思われるのである。

以上、本書の方法論にかかわる2つの疑問点を提示したが、先述のように本書がいくつかの興味深い史実を明らかにしたことに変わりはない。学ぶべきところが多いのも事実である。本書の議論が水戸学研究、さらには思想史研究にとって有意義なものであることは言うまでもない。

文責:田中俊亮

*1:鈴木暎一「水戸学」(子安宣邦監『日本思想史辞典』ぺりかん社、二〇〇一年)、五一四頁。

*2:尾藤の水戸学に関連する研究を代表するものとして、「水戸学の特質」(今井宇三郎・瀬谷義彦・尾藤正英校注『水戸学 日本思想大系五三』岩波書店、一九七三年)がある。

*3:例えば、玉懸博之『近世日本の歴史思想』(ぺりかん社、二〇〇七年)、本郷隆盛「藤田幽谷『正名論』の歴史的位置―水戸学研究の現在―」(衣笠安喜編『近世思想史研究の現在』思文閣出版、一九九五年)、大川真「後期水戸学における思想的転回―会沢正志斎の思想を中心にー」(『日本思想史学』第三九号、二〇〇七年)などで指摘されている。

*4:吉田一徳『大日本史紀伝志表撰者考』(風間書房、一九六五年)、『水戸市史 中巻(二)』(水戸市役所、一九六九年)は数少ない成果であるが、これ以降の翠軒に関する研究はほとんど見受けられない。

*5:なお本書に指摘はないが、『海防集説』は茨城県立図書館ボランティア郷土資料整理班http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/kyoudovolunteer/shora104_kaibono/kaibono_main/kaibo.htmの成果により、原文及び翻刻文がインターネット上で閲覧可能である。評者は2011年9月14日に参照。また、同じく翠軒による蝦夷周辺に関わる記録として、『海表異聞』などの史料が、同志社大学学術リポジトリの貴重書デジタル・アーカイブ小室沢辺紀年文庫http://elib.doshisha.ac.jp/japanese/digital/komuro_sawabe_kinen_bunko.htmlに所蔵されており、原文がインターネット上で閲覧可能である。評者は同日に参照。

*6: 尾藤正英『日本の歴史 第一九巻 元禄時代』(小学館、一九七五年)、二〇九頁。

*7:この点の吉田の見解は、「『大日本史』編纂の歴史観北朝正統論をめぐって」(『水戸光圀の時代―水戸学の源流』校倉書房、二〇〇〇年所収、初出は原題「徳川光圀の『大日本史』編纂の学問的目的―北朝正統論をめぐって―」『東京家政学院筑波女子大学紀要』第二集、一九九八年)で主に展開されている。

*8:「進大日本史表」(文化七=一八一〇年)。菊池謙二郎編『幽谷全集』(一九三五年)所収、二二一〜二二二頁。

*9:尾藤前掲「水戸学の特質」。

*10:『国家と祭祀』(青土社、二〇〇四年)。

*11:吉田の「記憶」(二五三頁)によれば水戸学と仁斎学との関連を分析した議論は「皆無」であるが、大川真は同じく『下学邇言』を使用して「仁斎から正志斎が継承したもの。それは活物的世界観である」と言っている。また大川は、吉田は「正志斎の思想が徂徠学を読み替えることによって成立すると述べ、宣長学の影響を考えないのであるが(『水戸学と明治維新吉川弘文館、二〇〇三年)、本稿で明らかとなったように、『自然』概念形成には宣長学の影響が、活物的人心観形成には仁斎学の影響が、それぞれ看取できる」ことを指摘している。この点は、大川真「後期水戸学における思想的転回―会沢正志斎の思想を中心に―」(『日本思想史学』第三九号、日本思想史学会、二〇〇七年)を参照。引用はそれぞれ一二一、一二八頁。なお、『寛政期水戸学の研究―翠軒から幽谷へ―』の第?部第三章の初出が二〇〇八年であることも付記しておく。

*12:子安宣邦『「事件」としての徂徠学』(筑摩書房、二〇〇〇年、初刊は青土社、一九九〇年)、同『「宣長問題」とは何か』(筑摩書房、二〇〇〇年、初刊は青土社、一九九五年)などを参照。

*13:これも言うまでもないことだが、ここでの「多様性」は「何でもある」という楽天的なことを示しているのではなく、「均質性」に対置された方法的概念として使用している。