【補論】近世稲荷社と荷田春満

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1.本報告の目的
荷田春満の「創学校啓」を読む作業から、素朴な疑問として、近世稲荷社の歴史的経緯はどのようなものだったのか、という問題が浮かんできた。荷田春満は、周知のように稲荷社神職の出自をもつ思想家であるため、稲荷社家でどのような身分的地位と社会的役割を担っているのかを考えることは、「創学校啓」を読むうえで一助になると思われる。本報告では、先行研究から得られた知見に拠っているが、それを補う形で自らの私見をコメントとして付し、「創学校啓」という思想的テクストを考える上での「外堀」を埋める作業に徹したいと思う。


2.稲荷社家と本願所

稲荷社家の系図*1

稲荷社家は、秦氏と荷田氏の系統に分かれる。

秦氏の系統
→大西・松本・森(毛利)の「三本家」を中心とする系統。
→稲荷社中の上・中・下社の神職を歴任。年功序列による持ち回り制。特に下社は社務を担当し、神職中第一位の席次。

◎荷田氏の系統
→主に本殿の管理と田中社の神職を担う。「御殿預」の東羽倉家と「目代」の西羽倉家の「両家」。春満は、「御殿預」の東羽倉家の出身。
→稲荷社中における秦氏と荷田氏の間では、元禄7年に起きた社殿修造一件(1694)を契機として、祭儀の執行や官位の昇叙に関して「争論」がしばしば起きる。荷田氏は秦氏との官位の昇叙や社職の権限に対して不平等感があった。荷田信名「稲荷社法格式之略記」(1727)では、享保12年(1727)に、秦氏の官位は昇叙されたのに対して、荷田氏の官位申請は認められなかったことを、「寝食ヲ忘レテ嘆キ」、「両家ノ恥辱言語ニ絶ス」とし、愁訴している。*2官位の上では秦氏が優勢であったが、経済的な側面においては、荷田氏が潤沢であった。秦氏の「三本家」は、分家を合わせると十一家になり、収入としては家禄と末社の散銭料でまかない、三社神職に任じられると、職料と神札料が加えられた。しかし世襲制ではないため、「三本家」以外の分家は、役職に就くかどうかで収入が左右された。一方で荷田氏の「両家」は、本殿初穂料を東羽倉家が独占。秦氏がもらう神札収入の三分の一を除く、残りを「両家」が折半し、境内摂社の散銭料も「両家」の収入となり、秦氏側からみれば、荷田氏との経済的な格差に不平等感を持っていた。*3

伏見稲荷社本願所愛染寺の存在

→当山派修験との関係が深い。愛染寺は教王護国寺(東寺)直属の寺。狐落としなどを中心にして、教化活動を行い、勧進聖の拠点となる。大黒天を稲荷神の本地とし、茶吉尼天を福神とする。
→天阿の活躍。寛永10年(1633)に住持として本願所愛染寺に入る。幕府の寺社奉行との政治的な関係を深め、教化活動を全国的に広げる。

※当山派修験は、真言宗醍醐寺を本拠とし、本山派修験は、天台宗聖護院を本拠とする。
→明治の神仏分離運動により、廃寺となるまで存続。江戸時代にかけて愛染寺は勧進聖の拠点となり、教化活動の拠点となる。稲荷社家も愛染寺を無視することは出来ず、秦・荷田・愛染寺の三者相互による「争論」が起きる。

◎稲荷社家と吉田家との関わり

稲荷社における官位執奏を行っていたのは、神祇伯白川家。有力神社とみなされる二十二社は、例外的に吉田家の「宗源宣旨」による神職による支配下にはなかった。しかし、吉田家は介入を試みる。元禄本殿修造一件では、吉田家が白川家に代わって、稲荷社家に対して諮問を行っている。修造する際に稲荷社の「由緒」の記録・証文を答申した秦・荷田双方に意見の不一致があり、寺社奉行小出守秀は吉田家に意見を求める。吉田家の答申は、愛染寺社僧を優遇する措置を行う旨を記す。これにより稲荷社家は吉田家への不信感を露にする。この事件が契機となり、稲荷社家は吉田家とは距離を置き、独自の道を模索することとなる。私見ではあるが、かかる動向を考慮に入れるのであれば、稲荷社家の大山為起や荷田春満が思想的な側面から、吉田神道との相対化を試みたのではないか?

→とりわけ荷田春満は本殿修造一件では当事者の一人として関わっており、荷田側の案として「稲荷社由緒注進状」を答申している。また吉田家から神道伝授を受けた毛利公治は、同年に「水台記」を著し、本殿修造一件に関して、吉田家への不信を公言している。*4

4.大山為起と垂加神道

◎大山為起略年譜

1651(慶安4) 松本為穀(稲荷社上社祠官)の末子として生まれる。
1654(承応3) 商人大山正康の養子となり、大山氏を継ぐ。
1664(寛文4) 父・松本為穀の死去に伴い、稲荷社に帰り、松本氏に復す。
1680(延宝8) 山崎闇斎に入門

誓文
神道相伝誠難有仕合恩義之至忘申間敷候事。

一 於無御許可者、謾開口語人申間敷事。

一 異国之道習合附会仕間敷事。

右条々於相背者、

伊勢八幡、殊伊豆箱根愛宕白山、総而日本国中大小神祇之御罰可相蒙者也。

延宝八年八月廿七日
   稲荷社神楽預
       松本左兵衛
        秦 為起(黒印)
   山崎垂加先生
(西田長男「大山為起」、『朱』29号、1986年より抜粋)


1681(天和1) 『考定世記』を闇斎より伝授。

1682(天和2) 山崎闇斎死去。闇斎の死の二日前に出雲路信直(下御霊社祠官 1650-1703)・梨木裕之(下鴨社祠官 1659-1723)とともに、垂加神道の後継者として正親町公通(1653-1733)を推挙し、正親町公通の門下に入る。

垂加翁以神道授受、公通卿之際、三子亦所以預許可也。為随待于門下、殊蒙塩土恵教矣。三子互以日居月諸、講習討論、正守所誨所導之道、而戮力一心、欲拾神風落葉焉。伏願因公通卿之為学、達此道於天朝也。三子如所思有偽、則吾生土之神明、霊社之冥慮、果以罸之焉而已。

天和二年 十一月八日
     鴨 裕之(華押)
     秦 為起(華押)
     春原 信直(華押)
  謹謹上 正親町中納言殿
      閣下
(前掲論文より抜粋)

1684(貞享1) 稲荷社朱印状を頂戴するため、江戸に下向。江戸で徳川光圀吉川惟足に謁見し、稲荷社の本殿造替願を奉上する。

1687(貞享4) 稲荷社祠官を辞す。松山藩に招かれ、味酒社祠官となる。

1688(元禄1) 味酒社にて、日本書紀を講義する。

1700(元禄13) 『氏族母鑑』成立。

1710(宝永7) 日本書紀注釈書『味酒講記』が成立。松山藩主に献上。

1713(正徳3) 死去。

1728(享保13) 死後に『稲荷社大明神縁起』が成立。

※本来は思想的な検討が加えられてしかるべきだが、史料へのアクセスの時間的制約があったため、略年譜を作成することで最低限の義務を果たさざるを得なかった。大山為起は山崎闇斎に私淑する前は、吉田家から神道伝授を受けているという指摘がある。【西田1986】また、大山為起の学問は「神道五部書」の再検討から出発しており、伊勢神道神道家である度会延佳との思想との関連もあると思われる。今回は思想的テクストの分析は断念せざるを得ないが、この意味において、近世神道の思想的位相は、吉田神道のみでは論述できない複層性を帯びた思想空間を考慮に入れる必要があろう。

5.「創学校啓」の再検討

改めて「創学校啓」に焦点を当て、荷田春満の思想をどのように考えるべきなのかを私見ながら述べてみたい。このテクストは偽書説がつねに囁かれていたことは、前の読書会などで触れたので、繰り返さない。幸いにも、新たな研究の進展として『新編荷田春満全集』に所収された影印版に触れる機会があったので、それを加味しつつ述べることにする。荷田信郷が編纂した『春葉集』の付録として収められたのは、「創造国学校啓」である。しかし、明治維新の折に福羽美静の命により、荷田家所蔵の遺書として発見されたのが、「霊淵本」と呼ばれる山名霊淵筆「創倭学校啓」である。荷田春満はすでに病床に伏しており、春満が立案し、山名霊淵が春満の草案を基にして、作文・浄書したというのが妥当であろう。かくして山名霊淵筆による「創倭学校啓」の方が、春満の企図するものと軌を一にしている。長らく山名霊淵筆による「創倭学校啓」は「草稿本」として考えられてきたが、春満が提唱する「倭学」がどのようなものであるかを見るうえでは、無視できない。山名霊淵は儒学に優れており、「創学校啓」の文章が漢文であり、「倭学」の根拠として漢籍の故事に倣う文章構成を考慮するならば、春満が考えていた「倭学」も推察できよう。つまり、春満の説く「倭学」は、儒学と対となる学問として「倭学」を提唱していたのであり、決して儒学を排するようなものではなかったということである。

『春葉集』の付録として収められた、荷田信郷による「創造国学校啓」は、荷田信郷が春満顕彰の一環として、奔走していた中で編纂されたものである。荷田信郷自身は漢詩人であり、同時代の文人たちとの交流を盛んに行っていた。【一戸2006・2008】鈴木淳の解題によれば、信郷がわざわざ「国学」の語を用いたことを、「漢学」の否定に繋がる「倭学」という名称を避けたのではないか、と述べている。【鈴木2010】

報告者はその意見についていまは保留するしかないが、読書会で読解した作業を通してみるならば、信郷がある程度改竄したという意見は首肯できる。しかしながら、信郷があえて「国学」の語を使ったのか、ということに限っていうならば、信郷が『春葉集』を刊行した当時、本居宣長による古言論の流布、昌平坂学問所の官立化、また懐徳堂皆川淇園が開いた弘道館などの学問所としての官立認可運動の活発化、という時代状況を考慮すれば、対概念としての「倭学」ではなく、「皇国之学」という意味を含んだ「国学」という語を、状況的に選択したのではなかろうか。もちろん、これは報告者の私見であり、粗雑な印象は拭えない。しかし、「創学校啓」が春満の思想を体現するテクストとしてみなされ、現在にいたるまで、「国学思想」という文脈から言及されることが多かったテクストを検討する機会が与えられたことで、近世思想を研究する意義について再考できたのではないかと考えている。参加者の意見を拝聴する次第である。

【参考文献】
〈研究著作〉
磯前順一・小倉慈司編『近世朝廷と垂加神道』、ぺりかん社、2005年。
井上智勝『近世の神社と朝廷権威』、吉川弘文館、2007年。
森恵子『稲荷信仰と宗教民俗』、岩田書院、1994年。
久保貴子『近世の朝廷運営』、岩田書院、1998年。
高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』、東京大学出版会、1989年。
羽倉敬尚『近世学芸論考』、明治書院、1992年。
深谷克己『近世の国家・社会と天皇』、校倉書房、1991年。
藤田覚『近世政治史と天皇』、吉川弘文館吉川弘文館、1999年。
前田勉『近世神道国学』、ぺりかん社、2002年。
松本久史『荷田春満国学神道史』、弘文堂、2005年。

〈研究論文〉
『朱』編集部「荷田氏の祠官列参入と神主氏秦氏」、『朱』34号別冊、1991年。
___「祠官家秦・荷田両氏の家格競望」、『朱』34号別冊、1991年。
___「稲荷社本願所愛染寺について」、『朱』34号別冊、1991年。
一戸渉「荷田信郷の雅交と『問斎漫吟』の出版」、『国学院雑誌』107巻11号、2006年。
___「春満と信郷―『春葉集』の出版まで」、『鈴屋学会報』25号、2008年。
井上智勝「神道者」、高埜利彦編『シリーズ身分的周縁Ⅰ 民間に生きる宗教者』所収、吉川弘文館、2000年。
___「社家(神社世界)の身分」、堀新・深谷克己編『〈江戸〉の人と身分3 権威と上昇願望』所収、吉川弘文館、2010年。
岩橋清美「伏見稲荷社における社記・由緒記編纂と名所の創出」、『江戸文学』39号、2008年。
鈴木淳「【解題】創倭学校啓」、『新編荷田春満全集』第12巻、おうふう、2010年。
竹ノ内雅人「神社と神職集団」、吉田伸之編『身分的周縁と近世社会6 寺社をささえる人びと』所収、吉川弘文館、2007年。
武部敏夫「元文度大嘗会の再興について」、岩井忠熊・岡田精司編『天皇代替り儀式の歴史的展開』、柏書房、1987年。
西岡和彦「大山為起の日本書紀研究と藤森神社―近世中期神道家の古典研究」、『神道宗教』153号、1994年。
___「垂加神道善悪考序説―山崎闇斎と大山為起」、『季刊日本思想史』47号、1996年。
___「大山為起と『職原抄玉綴』―垂加神道家の『職原抄』研究」、『朱』52号、2009年。
西田長男「大山為起伝補遺(一)・(二)・(三)」、『朱』2・3・4号、1966〜1968年。
___「大山為起」、『朱』29号、1985年。
幡鎌一弘神学者」、横田冬彦編『身分的周縁と近世社会5 知識と学問をになう人びと』所収、吉川弘文館、2007年。
___「近世前期における稲荷社家と吉田家―神道伝授と元禄七年社殿修造一件」、『朱』50号、2007年。
原田常生「創学校啓文の研究―成立と奉上」、『神道史研究』22巻1号、1974年。
引野亨輔「講釈師」、横田冬彦編『身分的周縁と近世社会5 知識と学問をになう人びと』所収、吉川弘文館、2007年。
山口和夫「霊元院政について」、今谷明・高埜利彦編『中近世の宗教と国家』所収、岩田書院、1998年。

※略年譜の引用史料はレジュメでは脚注になっているが、ブログ記事の記法の体裁により、ブログ記事では引用形式に改めた。甚だ見苦しい部分もあるが御寛恕を願う次第である。

(文責:岩根卓史)

*1:羽倉敬尚「稲荷社家系図」を参照。同『近世学芸論考』、明治書院、1992年所収。

*2:荷田信名「稲荷社法格式之略記」(1727)、『稲荷大社由緒記集成 続祠官著作篇』所収、稲荷大社社務所、1979年。181頁。

*3:松本久史『荷田春満国学神道史』、弘文堂、2005年。68頁。

*4:「凡ソ人物生ヲ稟ルコト、衣食ノ給スル所、一ニ当社之恩籟ニ負戴セザルト云コト無シ。然レトモ、我ガ国俗仏性ヲ尊テ、而シテ排セズ。神徳ヲ忘レテ、敬セズ。其職ニ居ルト雖ドモ、明ラカニ之ヲ辯ズルコトヲ得ズ、往々ニシテ答釈明ラカナラザル者、之レ有リ。」毛利公治撰「水台記」、『稲荷大社由緒記集成 嗣官著作篇』、65頁。