荷田春満「創学校啓」(p332「犬馬の年」〜p334「今の人偽造是多し」まで)

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【意訳】

私の年齢は、まだ六十にも達しておりません。だからといってなぜ、私が今日では美しかったものが、時を経ると醜くなることさえ知らないなどといえるでしょうか。また後進の有能で知識のある人たちが、どうして先人たちの力ではできなかったことを知らないなどといえるでしょうか。
 
愚かにもかかわらず、それを自分の武器として用いることは、まるで自分の力量を弁えずに、大敵に向かうようなものです。また、自らの卑しさを専らとするのは、燕山から採れた石を玉と間違いながらも人に自慢し、そのことを恥じることを忘れていること似ているといえます。志がありながらも成し遂げることなく、千里にも及ぶ道をとぼとぼと帰ることは、決して私が望んだことではありません。私の病が大変憂慮されるものだったので、志が有りながらも病床に伏しているのです。病に苦しめられ、病状が長引いていることを思わないではいられません。中風に罹り、自分が思っていることさえ、口からしゃべれないのは、まるで『孟子』の故事にあるように、陳仲が於陸にいた時に、三日三晩も食べ物を口にしなかったのと同じです。私の脚の具合が悪いのは、『韓非子』の故事にもあるように、卞和が楚山にいた時に、足を切られたことと似ています。もしいま私が何もできない廃人となってしまったのならば、後悔してもしきれません。時世による貧困に遭い、私は顔をしかめながら、独りで泣いています。和国の古学が天命によって滅ぶも滅ばないとしても、それは共に命運であり、時運だといえましょう。その時運を失わないようにするためにも、今だからこそあえて告げなければなりません。

今や、孔子の学は各地に起こり、仏教の教えもまた日を追うごとに盛んになり、家々では仁義を教えるようになり、たとえ足軽や馬丁であっても、漢詩の言葉を理解し、また家々では仏典を読経することが日課となり、たとえ子供や女性であっても、仏教の教えを話していたとしても、理解することができます。世間では漢詩文が流行し、和歌の道は衰えてしまいました。そのような今の有様を見れば、紀貫之公はたいそうお嘆きになりましょう。また仏法が盛んになるにつれ、人々が田園を寄進し、仏堂や仏搭を建立し、資産を使い尽くす姿をみれば、三善清行公は深く心を痛めることでしょう。臣下である私が秘かに思うには、このような時代の姿を見て、世の中が太平の日々が久しく続き変わらない姿を見れば、足ることでしょう。しかしながら、そのために悲しみ嘆息している者がここにいます。私たちには「神皇」が思し召した教えがあるというのに、その教えは次第に衰え、和国の古学は廃れ、昔は千のうちの十、百のうちの一は残存していた律令の書は、外来の民により散逸してしまい、いま世に復古の学を問う人は誰がいるでしょうか。もし詠歌の道が廃れてしまうのならば、「詩経」のいう大雅の詩風は決して隆盛しません。巷間で神道のことを講釈する者たちは、陰陽五行の説に依拠したものであり、また世間で和歌を講釈する者たちも、天台の教義にある和歌仏道無二の教えとして解釈し、儒者のくだらない説を取り込んで形だけを取り繕ったものにしかすぎません。さらには真言の教義に基づいた両部神道の教えは、まるでこぼれた滴のようなものであり、通らないはずの理屈をこね回しただけの論拠のない私見にしかすぎません。「秘訣」という言葉のどこに、古人の真なる伝承があるでしょうか。また「薀奥」という言葉を用いて、あたかも深奥さを語ることもありますが、このようにまったく今の人が語る言葉にはこのような偽りが多いというしかございません。


【論点の分析】
前回の質疑を踏まるなら、この箇所においても春満が常に典拠としているは、儒学である。和学としての「古学」を主張する際に、『論語』子罕編の言辞に依拠している。「子、匡に畏る。曰く、文王既に没したれども、文慈に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与かることを得ざるなり、天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予れを如何。」(『論語』、金谷治訳注、岩波文庫、p167)

もう一つの論点は、「復古の学」という文言である。この文脈から言及されている「復古」という意味はどのような意図で春満は言ったのか、というところに尽きる。直後の文脈で、「復古」の例として挙げているのは、詠歌の道としての歌と漢詩の詩風である。前回の考察で触れたように、春満は歌を〈教戒〉としての効用があるものとして理解したことは述べた。しかし、今回担当した箇所は、そのようなニュアンスが消されているようにも思える。

この点に関しては、改めて異本との照合を行う必要性があり、「創学校啓」というテクストの書誌学的分析が求められる。近年、新たな成果として『新編荷田春満全集』の全巻刊行と軌を一にしたところもあるが、テクストの刊行経緯として、荷田信郷が『春葉集』の付録というテクストの性格上を考慮にするのであれば、刊行時に信郷がある程度編集し、文章の整合性を持たせる意図があったことは排除できない。

またそれと付随する問題として、報告者が提示したい論点としては、近世神社における社家の身分的地位と、近世における伏見稲荷信仰が担った社会的役割の問題が挙げられる。この点に関しては時間的な問題もあり、次回での検討課題とするが、「荷田家」は当該期にどのような身分的地位と役割を有していたのかを考察することは、本テクストを読解する一助となろう。今回は時間的な制約が厳しいこともあり、踏み込んだ議論は提示できなかったが、担当箇所における論点整理に重きを置いた。参加者の意見を拝聴する次第である。

(2011年7月22日報告 文責 岩根卓史)