竜温「総斥排仏弁」―「サテ、護法資持論ニ」(p133)〜「略シテ弁ズルコト如此」(p135)

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【訳文】
 さて、森尚謙の『護法資持論』の論は、大変優れたもので、彼はまた儒者でもあるから、『春秋左氏伝』の文章を引用しながら、おおいに徂徠の論を論破している。これは確かに信頼できる議論だと言うべきものであろう。それに関係することを言えば、儒者は仏法を大変憎んで、聖徳太子を批判している。それには三・四箇条ほどの論難が見受けられる。まず、太子は自ら中国天台宗の僧である南岳慧思の生まれ変わりだと言うが、太子の誕生と慧思の入滅の時期が合わないという論難である。次に十七条憲法を自ら制定しながらも、この国に座して加護している神を奉る条文がないという論難。さらには、太子が仏法を広めようとしたために、忠臣であった物部守屋を殺したという論難である。とりわけ守屋に関する論難については、よく心得ておくべきだろう。なぜなら、守屋が殺された時は、太子は軍の大将ではなかったからである。その時、太子はまだ御年数えて十六歳でしかなく、とりわけ父・用明天皇の喪に服していた最中だったが、守屋の反乱が収まらなかったので、他の皇子たちと一緒に戦に従っただけである。それはもともと仏法の為のものではなかった。むしろ守屋の「逆心」がはっきりとしていた為である。なぜ、それを「逆心」と呼べるのかというと、『類聚国史』第八十八巻に、刑法の部が所収されており、そこには日本開闢の頃からの謀反人の名前が列挙されている。その中には、穴穂部皇子物部守屋連の名を載せてあることから、守屋に謀反の罪が存在していたのは、天下において明らかな事実であり、それは『類聚国史』の文章によってはっきりとしている。また次に、太子が仏法を信仰していることを理由に、蘇我馬子と親しい間柄となり、さらには馬子を「善人」としたいう論難である。(※本文では「云難シ」という表現になっているが、前後の文脈が合わないので、本文を「ト云難」と解釈した―報告者注)。これもまた当たらないことである。確かに馬子の父である蘇我稲目は、仏教への信心が深く、仏教の書物を集めたと記録に残されている(※本文の頭注において、「上欄に『法者作書乎』とし、『仏書』として解しているが、『仏法』のままでよいであろう」という注釈が加えられているが、「仏法を集める」というのでは、少し意味が通じないので、頭注に即して解釈を直した―報告者注)。しかしながら、馬子は単に父の跡を継いだだけであり、それほど仏法を深く信じていた人物ではなかった。だからこそ、馬子は悪逆非道な行いができたのである。そのような馬子に対して、太子は馬子のどこの部分を指して「善人」と言ったというのか。むしろ太子は「馬子は千年来にも及ぶような悪名を流してしまった」と嘆いたではないか。古の故事には、「君子は人を愛すれども、悪を知る」と言っている。ましてや太子は馬子を人として愛して、「善人」と申したと言うことは、今まで聞いたことがない。なぜなら、馬子には人として悪い面しかないからだ。
 次に、太子が摂政の位にいながらも、馬子を殺さなかったという論難である。これは先にも論じたように、太子はその時期に摂政の位に就いていたわけではない。しかし、「もしそうだとするならば、太子が摂政に就いた後に、馬子を殺すべきであるのに、馬子と一緒に朝廷を補佐し、共に政治を行ったのはどうしてか」という論難がある。この論難については、最も人倫における大義に関わることであるため、よく心得ておくべきだろう。儒者の輩は、あの守屋を殺したのと同じように、馬子を逆賊として挙兵して倒すべきだと主張するが、それにはその時勢や機会についてよく考えなければならないし、また簡単に挙兵できるような時分ではなかった。まず、戦いに勝つには、将軍が武勇に優れているのが一つの条件である。しかしながら、その時の天皇推古天皇という女性の帝である。とりわけ推古天皇は情け深い性格と見えるため、天皇が武勇を備えているとは考えられない。またいくら太子であったとしても、私心によって勝手に挙兵すれば、馬子の勢力が強大であり、どうすれば敵対できるというのであろうか。いや敵対できないであろう。しかも相手は天皇の「舅」である(※頭注が示すように事実ではないが、そのままにした。―報告者注)。しかも馬子は全国の軍馬をほとんど掌握し、その一門の勢力が朝廷にまで及んでいる様子は、まるで平清盛をはじめとした平氏一門を見ているかのようである。もし、戦いとなれば、馬子の勢力に従う人々は数多くて、その人数は計算さえできないほど強大である。たとえ、太子に従う人々が多かったとしても、その戦いの勝敗が決するまで、朝廷(※本文では王室)は混乱し、天皇は国家を平定することは不可能である。そうなれば、万民は皆悲しみにくれて泣き暮らすことになる。
 一丈和尚が著した『富の小川』には、「聖徳太子の身分としての位は高かったけれども、その勢力は馬子には劣っていた。さらに天皇の力でさえ馬子を抑えることができなかった」と書いている。このような馬子であるため、崇峻天皇が馬子を殺そうと考えていることを聞くと、秘密裡に東漢直駒を使って、崇峻天皇を暗殺しても、その時分においては、誰が殺したのかさえ知らなかった。かの直駒が後になって、馬子が殺された時に白状したほどであり、その時の人々は、もしかしたら馬子の仕業かもしれないと推測したとしても、馬子の勢力を恐れて余計な詮索は行わなかったくらいである。天皇さえ殺してしまうような馬子という人間を考えれば、ましてや屋敷を一つしか隔てていないところに住んでいる太子は、何の造作もなく殺されてしまうだろう。もし太子が亡き者となれば、馬子はますます驕り高ぶり、天皇の位まで奪おうと考えたことは、想像に難くない。そのようなことから、太子は思慮を深くして、自らの顔色を表に出さなかったために、馬子も心を許し、太子もその命が延びたという事情については、『富の小川』とも矛盾しないところである。だから、なぜ馬子を殺さなかったのかということは、前にも述べたように、馬子の勢力が強大であったために、滅ぼすことができなかったのが、最初の理由である。そして時の天皇が女性であったために、武勇を兼ね備えてなかったのが二つ目の理由。そして、もし太子が挙兵をすれば、朝廷は混乱に陥ってしまうことを恐れたのが、三つ目の理由。さらに、事件としては過去のものであるために、国家の安寧を優先し、馬子に過去の行いを自ら心から恥じるようにと考えたのもその理由に挙げられよう。これらにはそれぞれ深い理由があり、太子は力で争うことをせず、自らの徳によって国を治めて、馬子の妄悪を挫いたのである。だから政事を補佐するうえでは、馬子の存在はそれほど障害にはならず、またあったとしてもないようなもので、この国に「徳化」は遍く行き渡ったのである。
これらのような深い理由さえ知らずに、今の儒者たちは、乱暴に悪口だけ言い放ち、畏れ多くも太子の御身を誹謗する行いは、言語道断であり、実に論じるに足らないものである。ただし、彼らの内心は、全く太子の勲功を知らないわけではない。しかしながら、その内心を曲解して隠蔽し、天下の人々に太子への信仰心を失わせようと考えていることは、実にずる賢い悪だくみと言うべきである。孔子は、「人の一善の行いを聞いたならば、その人が行った百の非を忘れなさい」と申したではないか。今の儒者たちは、太子の「非」でもないことを「非」とし、たった一つの「非」なる行いを取り上げて、百にも及ぶ善行を覆そうとしている。すでに太子は、勅旨によって「聖徳」という諱を号しており、その名は異国にまで聞こえ、人々は太子を「至聖」と呼んで尊崇してから、もう千年以上の年月が流れている。ただ、なんともせせこましい儒者の輩だけが、太子を罵倒して「賊子」などと述べている。どうしてその罪が軽いものだといえようか。罪は重いに決まっている。かかる行いを重ねても舌の根が壊れないのかが不思議である。心ある人はこのことをよく考えるべきだろう。上記のことは、脇道にそれた論述ではあるけれども、聖徳太子尊い足跡を詳しく論じたのは、この通りである。

【担当箇所の論点】
「サテ、護法資持論ニ弁ズル処ハ……徂徠ヲ破シテアル」(p133・2行目〜3行目)

→森尚謙の議論を支持。儒者であっても仏教批判を行っていなければ積極的に評価。

「モト仏法ノ為ニアラズ。守屋ノ逆心著キ故也」(p133・8行目〜9行目)

聖徳太子は、仏教を広めるために、守屋を討伐したのではなく、守屋が謀反を起こしたからと説明。

「馬子ハ父ノ跡ヲ継タル迄ニテ、深ク信ジタル人ニ非ズ」(p133・13行目)

→馬子は仏教を深く信じていないという、その「人間性」を理由に、聖徳太子が馬子を「善人」とは看做していなかったと説明。

「儒輩ノ意ハ……ソノ時勢・機会ヲヨク/\察スベキコト」(p134・1行目)・「彼馬子強大ナル」(p134・5行目)

→当時の馬子側の勢力が強大であったことから、聖徳太子が馬子と対立しなかった理由であると説明。

「太子ノ慮リ遠クマシ/\テ」(p134・16行目)・「力ヲ以テ争ヒ玉ハズ……徳化四海ニ溢レタリ」(p135・4行目)

聖徳太子をめぐる評価。馬子を兵力で倒すのではなく、太子自身の人徳により、政治を行ったことこそ、その功績だとして称揚。

「但シ彼ノ内心ニハ、太子ノ勲功ヲモ全ク知ラザルハ非ルベシ」(p135・4行目)

儒者も太子が成した功績について認めている節があると言及。

◎ 論点のまとめ
担当箇所の論点は、儒者をめぐる批判に対して論駁するために、馬子が仏教を信仰していなかったことを根拠にして、聖徳太子が「徳」を体現した人物であったことを強調した内容となっている。また、『聖徳太子実録』や『護法資持論』を竜温自身の論を補強するものとして、取り上げている。

【考察】
 本報告では、担当箇所で言及されている『聖徳太子実録』について、若干の考察。

聖徳太子実録』(1767刊)の立場。

太子伝ハ日本紀ヲ基トシテ、諸寺ノ縁起等ヲ考合セテ、潤色シタル物也。作者モ平氏トバカリ有テ、誰トモ知レズ。仍テ其説ヲトラズ。仮名書ノ太子伝ハ、一向ニ用イズ。其外太子ノ伝記、許多有ト雖トモ、多ク仏者ノ手ニ成タル書ナレバ、総テ用ヒザルナリ。(長崎一風『聖徳太子実録』、凡例、四丁オ。)

聖徳太子の伝説を集めた『聖徳太子伝暦』に対する批判。『日本書紀』の記述こそ第一であり、『日本書紀』に即して考えれば、それが「護法」にも繋がる。

諸宗ノ緇徒(出家した僧侶のこと―報告者注)、本朝仏法ノ濫觴知ズンバ有ベカラズ。此書ヲ見テ、国史ノ文意ヲ識得セバ、世間ニ対スル護法ノ一助ナラン。(『聖徳太子実録』上巻、凡例、四丁ウ)

一風によれば、聖徳太子は、神・儒・仏に関わらず、「道ノ本体」を体現した人物。「太子ハ儒者ニ非ズ、仏者ニアラズ」と述べるように、いずれの教えも超越した存在として位置付ける。仏教批判については、儒者神道者も「道ノ本体」を理解していないことが起因とされる。

神・儒・仏・老、何レモ道ト称シ、教ト称スレトモ、是ヲ委シクセサル輩ハ、教ニ執シテ、道ノ本体ヲ会得セザル故、僻論多シ。教ハ則チ道、道ハ則チ教ニシテ、不二ノ物ナガラ分テ是ヲ云ハ、道ハ聖人ノ心ニ有テ、教ハ口ニ出身ニ行ヒ給ヒシヲ書ニ著シ、依テ後世ヨリ察シテ、聖人ノ胸中ヲ識事ナレバ、各自己ノ智慧ノ分際ヨリ、上ハ見エヌ物ナリ。(『聖徳太子実録』上巻、凡例、二丁ウ−三丁オ)

諸君子、我好ム所ノ教ヲ以テ、容易ニ聖徳太子ヲ是非スベカラズ。太子ハ儒者ニ非ズ、仏者ニアラズ。仍テ神道者ハ国常立尊ノ前ニ頭ヲ出シ、儒者ハ三皇ノ先ニ足ヲ運ンテ再ヒ立帰リテ、神武以来尭舜以来ニ眼ヲ開カバ、世界ノ広キ事ヲモ知テ、神ト聖トノ心ヲモ察シ、太子ノ是非ヲモ伺ヒ得ラルベシ。然ラザレバ、其教ト其事跡トニ迷ヒテ、道ノ本体ハ一生夢ナルベシ。僻論起ル處爰ニ在カ。(『聖徳太子実録』上巻、凡例、三丁オ)

担当箇所で検討した竜温の聖徳太子批判に関する記述の多くは、『聖徳太子実録』に依拠しており、その記述も重複。例えば、馬子の政治的勢力が強いから、聖徳太子も馬子に抵抗できなかったという記述から、そのことが伺える。

馬子ハ時ノ権臣ニテ威勢アル故、誰ニテモ臣下ノ内ヨリ馬子ニノシカヽリテ詮議スル程ノ人モ無カリシナリ。(『聖徳太子実録』下巻、「馬子崇峻天皇ヲ弑シ奉シヲ太子是ヲ討給ヌヲ陳ス」、三十丁オ)

→また、『実録』の付録部分では、竜温が批判している林羅山荻生徂徠や、『護法資持論』の聖徳太子関係の引用箇所も掲載されており、それを裏付けている。

【まとめ】
本報告では、担当箇所で検討した部分に関する記述に限定したが、『聖徳太子実録』は、竜温が自らの議論を組み立てる際に参照したテクストの一つであると推測される。読書会の中で、竜温が参照にしたテクストの存在がたびたび話題になったが、その意味で竜温が何を読みながら、自らの議論を組み立てたか、という問題は改めて深める議題の一つであろう。まとまりのない報告だが、参加者の意見を請う次第である。

文責:岩根卓史