竜温「総斥排仏弁」―「次ニ秘録十七」(p130)〜「徂徠ニ殊ナルナリ」(p133)まで

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次に、『経済問答秘録』十七<五丁左>p4l5に「蘇我馬子厩戸皇子と意を同じくして仏法を我国に引き入れ、信仰していたのであるが、穴穂部皇子を殺し、続いて崇峻天皇を殺した。この時厩戸は摂政の職にありながらこのような大逆を誅罰しなかったのは仏法の仲間であったが故であろうか。もしこのことを孔子『春秋』の筆法に従えば「厩戸自らが殺した」と書したのではなかろうか。」といっている。この条は言語道断の過言である。まず、『秘録』に「この時太子は摂政の位にあり」といっているのは、お前は明白な事実を知らないでこのようなことをいっているのか。太子が政治に携わりなさったのは後の推古天皇の時にいたって、女帝であられたからであり、太子は再三固辞なさったけれども、(推古は)お許しにならず、ここにおいて(初めて)摂政の職にお就きになったのだ。また、崇峻天皇は生まれついての短慮であらせられ、太子の度重なるお諫めもお聞きにならず、急に馬子を殺そうとお思いになり、それを言葉に発せられたが故に、太子は驚いて一座の人々を誡めなさったけれども、一人の愚かな士が馬子に告げてしまった。馬子がすぐに謀反の心をおこしたことは、本当に太子がそれを支えていたのだなどということはない。
 またこのことは、今の『秘録』の著者が初めて言い出したことでもない。この頃の排仏論者たちが最も賛嘆する人物が楠木正成、続いて織田信長であり、また古の人物であれば賛嘆する人物として物部守屋、逆に誹謗するのが聖徳太子である。だから煩わしきに似たりであるが、しかしこのことは疎かにして論じないでおくことは決してできないことである。
 抑も儒者の輩で太子を非とするその初めは、かの林羅山である。『羅山文集』に収められている「蘇馬子弁」に「林氏云う、八耳、天皇を殺す、と。或人、国史には馬子が崇峻天皇を殺したとあるが、何故その表現が異なるのか。林氏答えて次のようにいった、八耳が天皇を殺したというのは、『春秋』の筆法である。『春秋』の宣公四年夏六月、公子帰生その君を殺す云々とある。もし孔子が筆削したならば必ず次のように書していうであろう、崇峻天皇五年冬十一月、太子八耳が天皇を殺したと書くべき箇所である、と。」とある。今の『秘録』は全くこの羅山の口まねである。『本朝歴史略評注』という四巻本がある。元禄三年開板のもので羅山存命中であったから、羅山の説はこの『評注』から出てきたものであろう。この『評注』は往々にして太子を誹謗している。史論として太子を罵る議論の初めのものであるとしなければならない。近ごろ満空僧都が『善光寺如来伝』を著し、その附録において委しくこの『歴史略』を論破している。見ておきなさい。
(p131l11〜)
 次に徂徠の「擬家大連の檄」というものがある。これは徂徠は物部の姓であり、自ら「我は守屋の子孫である」とし、太子を先祖の仇であるとして憎み怨むということである。よってその檄とは「自分が先祖の守屋に代わって檄文を四方に伝え馬子と太子を誅す」という意図から作られた文章である。これについては宝暦九年二月廿二日、摂津国四天王寺の外釈放光という人の徂徠の檄文を論破した文章がある。詳しく徂徠の非を論じている。その全文も『如来伝』の付録に載せてある。また長崎の一丈和尚という人は「富の小川」という文章を作り徂徠の檄文を論破している。これは明和四年に長崎一風という者の著した『太子実録』の終わりに載せてある。
 次には肥後の井沢長秀の『俗説弁』に「馬子が私怨によって守屋を誅殺したことは明らかである。それなのに忠良なる守屋を逆臣とし君を殺した馬子を善なる者とすることは国史に目の暗い者の妄説であって、絶え間のない巡りの誤り、甚だしいものである」と記している。これも一風の『実録』に論破してある。今言うところの「馬子は私怨によって守屋を討ったことは明白である」とは井沢長秀の文脈では尤もなことであろうが『書紀』の記述においては明白なことではない。守屋が逆臣であることの明白な部分は著者の私心で以て削り除いたものが『俗説弁』である。馬子に私怨がなかったということはないけれども、守屋に逆心がなければ、どうして他の王子たちや臣下たちが馬子に従うことがあろうか。守屋に従ったのは中臣勝海だけで他にはいなかったのだ。ただ守屋の一族と手勢だけであった。そうであれば井沢長秀が『書紀』の文章を自己勝手に解釈して「さても忠良なる守屋」などというのは、これまでの俗説が『書紀』を見誤ったのではない。俗説は却って『書紀』に準じている。長秀の歪んだ心から『書紀』を見るために『書紀』を見誤っているのは井沢長秀その人である。
 また馬子が天皇を殺したことを「善き者という」としているが、何処にそのような文があるのか。藤原兼輔が編集した太子の伝記『聖徳太子伝暦』にも馬子をさして「馬子は驕り高ぶった臣下でありその悪名は千年の後までも雪ぐことはできない」とされている。馬子の非を明らかにされているのだ。
 そうであればこれらの誤った説をうけて書かれたのが今の『秘録』なのだ。今日、排仏を唱える儒者の輩の口癖のように出てくるのは、これら羅山・徂徠・長秀の口まねなのである。但し、儒者といっても太宰春台は徂徠門の一人ではあるが、このこと(太子評価)については全く別である。『弁道書』では「日本に道というものがなく、すべてが無垢の初々しいままであったところに三十二代用明天皇の王子で厩戸という聡明な方がお生まれになった。あるいは国を治め、民を導き、文明の化を天下にお施しになった。日本に於いて厩戸の功績は制作の聖ともいうべきことのできる人である。そうであれば聖徳太子と諡されたのも決して虚名などではない。」といっている。春台は随分仏法は嫌っているけれどもこの見識は徂徠とは異なるものである。


●p128『経済問答秘録』批判の続き。
・篤胤のような単なる仏法に対する悪口ではなく、天下国家・経世済民を論じているが故に困る。
・p129仏法は一身を修するのみで天下国家に益無し→なくしてよいもの

?p130l8〜
・『秘録』の聖徳太子批判に対する反論
『秘録』
・馬子と太子はともに仏法の日本への導入を図り、馬子は穴穂部・崇峻を殺し、太子は摂政であるにもかかわらずそれを罰することはなかった。「仏法の党」なるが故である。『春秋』の筆法であれば太子が天皇を殺したとなるはずである。
<竜温>
・「史実」からの反論=当時摂政ではなかった。
・太子は「天性短慮」な崇峻を誡めており、自業自得。馬子の叛心も太子のせいではない。
・太子批判のそもそもの発端は羅山「蘇馬子弁」であり『秘録』はその口まねに過ぎない。
・巨瀬正純『本朝歴史略評注』も太子を誹謗しているがこれには『善光寺如来伝』が詳しく批判している。
?p131ア8〜
○徂徠「擬家大連檄」に対する反論
<竜温>
・徂徠は物部の家系であり、それ故馬子・太子を怨みこの文章を作っただけだ。
・「檄」には先の『如来伝』の附録に批判が載せられ、また『富の小川』という詳しい批判書もある。長崎一風『太子実録』に収められている。
?p131ア1〜
○井沢長秀『俗説弁』
・長秀は馬子が私怨によって守屋を討ち、忠良な守屋が逆臣に、主殺しの馬子が善者にされているのは『書紀』の読み誤りである、とする。
<竜温>
・『書紀』の記述を私心で以て読んでいるのは井沢長秀である。
・『聖徳太子伝暦』にも馬子の非は明らかにされている。
?p132ア7〜
・これらの謬説を丸呑みしているのが『秘録』
=羅山・徂徠・井沢の口まねに過ぎない
・しかし、春台はよろしい。

経世論・歴史に関する「反論」
聖徳太子擁護と『春秋』の筆法
→近世における聖徳太子評価、太子像の問題
真宗における太子評価
→近世における「歴史」の見方
=「筆削」的歴史と仏法

文責:石黒衛