竜温「総斥排仏弁」―「邪見漸熾盛故トハ」(p123)〜「弁ズル処ナリ」(p124)まで

「三、邪見漸熾盛故トハ」p123-124

(今、排仏論の興る理由は次の五つ。?仏法理深広故、?人心失淳朴故、?昆濁(見濁漸熾盛故、?僧徒流弊風故、?局見悪流布故)

(三)p123、l4〜
 排仏論の興る理由の三点目、仏法に対する邪見がだんだんと盛んになってきたためとは、別に論を待たないであろう。諸々の異端というものは、たとえ五つの神通力を修め得たとしても仏法の道理からいうと邪な智恵、分別である。ましてや今日のように末世にいたって正しい知恵もなく邪見のみが増長するために、これが排仏論を唱える輩の興るゆえんである。
 邪見というのはその実体は因果の道理を否定して省みないことでありこのこともまた、我等仏教徒たるもの因果の道理を良く弁えて、この仏法ヲ守護しなければならない。迷いの因果と悟りの因果が仏法の大綱であり、法爾自然の道理(自然法爾)を常に心に抱いて学ばねばならないのである。この善と悪、迷いと悟りの因果を明らかにしなければ、排仏論を唱える異端を屈服させることはできない。だからこれは大切な議論なのである。
 
(四)p123、l10〜
 四点目の仏教徒が弊風に流れる故とは、およそこの弊というものは弊悪になれてしまって悪いことには違いはないのだが、黒いところに墨を塗るように元々悪いところに弊害が起こるというものではない。菩薩の六種の行に六悪心があるように、善い道には善ければ善きにつけ悪の生じることが弊というものである。
 天下泰平ほどよいことは亡いけれども、天下泰平でいられることを謹み懼れ喜ぶ者が少なく、泰平であるがために増長してしまう。これが弊風というものである。我が仏法に於いて、仏がおられた時代のように修業することができるのは我が真宗祖師親鸞の教えのように、自ら他力念仏につとめ他者に勧めることについては誹謗をうけるべき道理のない教えであるのだが、今日様々な誹謗をうけているのは教えそのものの科ではない。すべて末世における弊風なのである。
 しかしながら悪僧というべき者も古よりあると見えて、『本朝文粋』にみえる三善清行は、姿は僧侶に似てはいるが、心は獣を殺す者のようであり、「諸国の僧侶たちの濫悪を禁ずることを乞う」という封事の一文が残っている。そうであるならば、古より心得違いをする僧侶が諸国にいたことが分かる。願わくば、我が真宗は末世にふさわしい大事な法でであれば、祖師の宗風を掲げて「自行化他」すべきである。誠に今日、仏法がもとのままであることは、実に公儀の恩によるものであれば、真宗の掟である「人倫王法」を心から学ぶべきである。

(五)p124、l4〜
 五点目の狭い見識が仏法流布を嫉むが故とは、これは今日排仏を唱える輩でこの仏法を憎み嫉む気持ちを抱いていないものはない。第一にあの篤胤などは、全くこの仏法の流布を憎んでいる。そのもとは真淵、宣長であるが彼らも全く同じ。「かけまくもかしこき我が神国は長い間仏法に汚されてしまった」といっている。このこともまた仏教徒はよく心得て、我が本朝の古実として、この仏法が朝廷に用いられてきたいわれやこの仏法が神慮にかなう道理を明らかにしなければならない。このことについても色々と話さなければならないことがあるが今は略しておく。
 今日の排仏論は、すべてこの仏法に対する憎しみや嫉みから興るものであれば、弊風を改め身を慎んで法城を護るべきである。以上、簡略ながら排仏論の興るゆえんを五点にしぼって述べてきたものである。

●論点

(三)
◎p123、l8「法爾自然」=親鸞の「自然法爾」、祖師親鸞

(四)
◎l13「天下泰平」とア3「末世の弊風」=竜温の時代認識
◎ア5「吾真宗祖師ノ教ヘ」、p124、l1「祖師ノ宗風」とl2「真宗ノ掟タル人倫王法
親鸞蓮如に対する認識、王法と仏法に対する認識

(五)
◎l5篤胤に対する憎悪=従前通り
◎l6「仏法ヲ朝廷ニ用ヒ玉ヒシ謂レ」「神慮ニ冥応スル道理」
王法と仏法との関係

文責:石黒衛