荷田春満「創学校啓」(p330〜p332「千里ならん」まで)

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【意訳】
 
謹んで、大いなる慈悲をいただき、和学のための学校を創設することを請う啓。
                                 
荷田東麻呂

誠慎誠恐頓首頓首。謹んで申し上げます。伏して、よくよく考えれば、東照神君となられた徳川家康公は、三河国より勃興し、その覇功は一度なると、瞬く間に天下を平定し、その御治世は、すべて家康公の望むところに適うものとなりました。天命が新たに下り、新政が行われたとき、始めて弘文館を創建なされました。その学堂は書籍も豊かで、施設も立派なものであり、何一つとして不自由のないものでございます。
 
今の幕府が名君を代々にわたって受け継ぐにつれ、文事もますます明るいものとなり、武事も備わり、いずれも隆盛の極みというべきでしょう。今の治世は、鎌倉幕府を開いた源氏が倹しさを好んだとしても、どのようなことも及びません。文物が豊かで、文質がこれほど調和した御治世は他にございません。さらに室町幕府を開いた足利氏が文を尊んだとしても、どうしてそれを今の御治世と同じ話とすることが出来ましょうか。
 
このように、国運は盛え、平和な治世に応じ、天に広く仁政を行う君子が自ずと生まれ、その天より与えられた資質によって、国というものが自然の教(原文は不厳となっているが、不言の教えか?)であることを知らしめるべきでしょう。賢人という者たちは皆用いられ、野には賢人が登用されないで遺ることはなく、また堯帝が行ったように、王に諫言する人のために、朝廷の門外に鼓を設けたことに倣い、朝廷に諫言する臣下が多いことは、周王の過ちを百官が戒める辞をなぞらえるべきではありませんか。

上においては、天皇を尊び、他を欺くことのない政事に専念し、下々には、諸候を懐けて、献上品を貢がせるのです。そうすれば、道は整い、また暇があるときは、心を古学に傾けて、教化が遍くいきわたるならば、その治世は先王より深いものとなりましょう。『漢書』の故事にみえるように、優れた書物を金の糸目をつけずに購入すれば、天下に名声のある人々は、そのことを風の便りにより聴きつけ、その散逸した書物を調べ、その優れた才能は、四海にあまねく広がることでしょう。

おそれながらも私はかつて、江戸に遊学していた頃に、幸いなことにも登用され、自らの拙劣さを顧ることなく、義を尽くしてきました。私は偶然にも徳川吉宗公から命を受け、書物の調査に携わることができ、無名無官の身でありながらも、私のようなものであっても多大な御恩を下さりました。誰の為にこのようなことをしましょうか。誰に聴かせるためにこのような話をしますでしょうか。司馬遷の言葉は深く受け止めるべきです。また、「どんなに智慧があっても、時を待つしかない」と孟子がおっしゃられたその心は、誠に理由があったものだからでございます。
 
当にこの時により、私は幕府の御威光により、和学校創建の大義を起こし、将軍の庇護をお借りし、私の平素からの願いを達成したいという心持ちがありました。しかし、その旨をあえて行わなかったのは、私心ながら秘かに思っていたのは、大亀であっても、務めて休まなければ鈍重でも大事をなしうるということです。

荷田春満略年譜】

(年号)           

1669(寛文9)     

伏見稲荷社御預職羽倉信詮の次男として生まれる。名は信盛。通称は斉宮(いつき)。

1697(元禄10)     

妙法院親王に仕官。

1700(元禄13)   

大炊御門経光の随伴として江戸に下向。それ以降、江戸に留まり、歌学や神道を市中で講釈。『万葉集』や『日本書紀』に関する講義を行う。

1713(正徳3)    

京都へ帰京するが、江戸にすぐに下向。長岡藩主牧野忠寿から招聘される。

1714(正徳4)    

帰京し、老母の孝養に尽くす。

1722(享保7)

再び、江戸に下向。徳川吉宗の命により、紅葉山文庫の書物整理や鑑定の職に就き、歌学・古書・有職故実などの下問にも答える。

1728(享保13)

養子の荷田在満を出府させ、この時に在満に「創学校啓」を持参させたといわれる。

1736(元文1)

中風(今でいう脳血管障害)により、死去。



【『創学校啓』をめぐる論争】

(三宅清説)

羽倉氏所蔵の啓文草稿を調査。訓点も春満の自筆ではないとする偽作説を主張。草稿本には「和学」とは書いているが、「国学」などの語はみえない。また抽象的な文章であるため、春満の自筆とはみえない。

(原田常生説)

草稿本は春満の自筆とする。春満の体調不良により、頓挫はするが、信郷が『春葉集』刊行の際に、校正をしたとする。

【考察】
荷田春満の「創学校啓」は、テクストの性格により、真贋をめぐって学説の論争が行われてきた。しかしながら、これまでの研究蓄積を踏まえるならば、概ね、春満の自作である可能性が高いとみるのが「定説」であると考えられる。
 
本考察では、このことを踏まえたうえで、荷田春満の思想を検討したい。春満については、「国学四大人」観に基づく系統的に捉える視点が取られてきたが、そのことに関しては、また別の機会があると思うので、そちらに委ねたい。本考察ではとりわけ「歌学」の側面から考えてみたい。

荷田春満は『万葉問答』(1706)で、次のような見解を示している。

万葉集の撰述道徳の意味に発暉する説いまた古今其説をきかす。予神祇道学のおもむきを得て万葉集を不易の勧善懲悪の書とみひらくより、古語の解も道義に便りあるところは、不辞して臆説を立るに似たり。(『万葉問答』)

荷田春満が、自らの学問を〈神祇道学〉にあると自己規定したうえで、『万葉集』を〈教誡としての歌〉とする言説は、同時代の〈歌〉の効用をめぐる言説と共有していたものといえる。
 
浅見絧斎(1652−1711)の『箚録』(1706)。戸田茂睡(1629−1706)の『梨本集』(1700)。

仮初モ和歌ハ鬼神ヲ感ジ、夫婦ヲ和ゲルナド云ル妙用アレバ、凡ソ三綱五常ノ教、自然ノ情ニ感ジテ不已、三十一字ノ詞ニ著ルヽ。……歌ハ自然ノ情ヲ歌ウコトナレバ、仮初モ義理ラシキ歌ノミヲ歌ト云ニハ非ズ。其間或ハ世ヲ遯レ、或ハ風景ヲ述ベ、或ハ古ヲ感ジ今ヲ思ウ様ナルコト共、是即チ人ノ情自然ノ感ナレバ、尚以テ余所ナラヌ感心アルコト也。毎トナク其中ニ人倫日用ノ教モ切ニコソ覚ユレ。(浅見絅斎『箚録』、『山崎闇斎学派』、p363-p364)

人の道といふは、常の作法也。仁義礼智の五常をたつるは、儒の道也。人の心にまことすくなく成りて、人道にそむくゆへに、此おしへをたてたり。大道すたつて仁義をこると云は、此ゆへ也。神道は大道也。人道と云は、主君、親のありがたき恩徳を、ふかく心にこめて、わたくしの心なく、かた時もわすれざるを云也。(戸田茂睡『梨本書』、『近世神道・前期国学』、p275)

〈教誡としての歌〉という見解は、同時代では広く見られる。春満もその意味で歌を〈教誡〉の解釈からみる。〈教誡としての歌〉という効用論に関する議論の最大のものは、『国歌八論』論争。報告者はこのことについて、拙稿を書いたので、詳細は譲ることにする。荷田在満(1706−51)は、有名な「翫歌論」で次のように述べる。

歌のものたる、六芸の類にあらざれば、もとより天下の政務に益なく、また日用常用にも資くる所なし。……されば歌は貴ぶべきものにあらず。たゞその風姿幽艶にして、意味深長に、連続機巧にして、風景見るが如くなる歌を見ては、われも及ばんことを欲し、一首も意にかなふばかり詠み出でぬれば、楽しからざるにあらず。(荷田在満「国歌八論」、土岐善麿『国歌八論』、p18-p19)

田安宗武(1715−71)は一連の論争で次のようにいう。

舜は五すぢの緒の琴を弾き、南風の歌をうたひたまひて、天下を治めしとか、実に人の心を和らぐるは歌の道なり。されば聖の御代、礼楽を重んじたまへり、か の楽といふものゝ中には、歌も、舞も、弾きものも、吹きものも、鼓ちものも、みなこもりてあるべき、さればうるわしき歌は、人のたすけとなり、あしき歌は 人をそこなふ。・・・・・・されば雅楽廃れて後も、聖、なほ詩経といふふみを撰ばせたまひて、人を導きたまふなり。これ後世、うたふにもしもあらねども、 人の心を和ぐることは、常のことばには、いたく勝りぬわざなるべし。(田安宗武「国歌八論余言」、同、p48-p49)

世の末になりゆくまゝに何の意もあらで、たゞめづらかに、華やかなるをのみ好み詠み出づるほどに、果ては人のため、よしあしき便りとも、なるべきものにもあらず。なほたはれたる媒となるべし。(同「国歌八論余言」、p49)

またはかなき月花の景色又はおもふ心のほどのいひ出んに、おのづからも、はた設けても、さる心よまんはわづらはしからざらんかといひしは、則ち詩経の心に こそ侍らめ。詩経とても皆理りをいひたるのみにはあらず、葛箪の編の如きは只事をのべたるなり。されば此の国のよしあし定めんも、詩経の心にたがふべからず。(田安宗武「臆説剰言」、p124-p125)

荷田在満は『国歌八論再論』で、「臣愚はから国の詩もわが国の歌も、同じく道徳にかゝはる事にはあらずして、たゞ其情を詞を発して和らぐる物の、中世一変して詞花言葉を翫ぶ事とのみ心得たり」(荷田在満「国歌八論再論」、p71)と自己弁明的に述べているように、「詞花言葉を翫ぶ」ことを肯定するわけではない。「翫歌論」は〈歌〉をめぐる現状認識を述べただけである。しかし、効用論のみに焦点を絞ってしまったがために、在満の意図が汲み取れなかったことは否めない。むしろ、荷田春満との関係を考えるうえで、上田秋成(1734−1809)に言及しておくべきだろう。上田秋成は、万葉集注釈書である『楢の杣』(1800)や『春葉集』の序文を認めている。

我のうしの此よみ歌ともをみれは、いにしへ今もかはらぬまこゝろもて、こと葉は新草にふる草おひましはりたらむことに、いつゝの色とり、たてぬきのあやをも織なしつゝして、世にひとりたてるよみ人になむ、おはせりき。(「春葉集序」、『全集』11巻、p264-p265)

荷田信郷の依頼により、秋成は『春葉集』の序文を書く。

『楢の杣』では、「翫歌論」を意識した言及をしている。

哥とはうたふ物故にいへり。さるはいみしく言えりして、調へをとゝのへすは、いかてふしはかせにかなふへき。後の教へに、詞花言葉を専ら玩ふへきものに云しは、おのつからふしはかせにも叶ふへきを、それたゝ詞に花さかするには、野山におふる色香のおのかまゝにはあらで、土かひ水そゝきなす人の巧みに、彼もしたかひて、ちひさけなりしは大けく、ひとへなりしは八重なゝへに、色はいとも異ものとこそ見ゆらめ。(上田秋成「楢の杣」、『全集』2巻、p19)

花言葉とのみにいにしへにたとらぬ人は、此集の哥を、よきあしきのえらひなく、只、鵺、ふくろうの夜声に、音鳴あしくとのみ忌きらふよ。そのかみの人の口には、うたふに叶ひ、哥ととしもおほせしかはこそえらひとゝめ、聞もつたへては書おきたるものそ。哥のみしかならす、万のくさはひ、日ゝにとりまかなふうつは物にも、さるへき物とはおほゆかし。春の鶯の木ぬれ立くゝり囀る、秋の松虫の叢にすたきつゝこゝろく音は、いにしへ今もかはらす、人めてはやする也。(同、p24)

上田秋成は「古言」について次のようにいう。

いにしへの歌は、心におもふ事のあまりて、言を挙てうたふものなれは、哥は心の中よりいつる者也。文とて事長くつらぬるは、たゝへ言とそのかみは云て、外より来たるものよといひし人あり。聞教ふる人の言をかきとゝめむにはこそあれ、外より来たらすとても、おのか思ふ心はへをしも云つらねんには、こも中より出て、まことあるつとめの哥にしもおとるへくは。哥といひ文と云、たゝ事の繁くてやむへからぬのたかひのみ。……かしこもここも、古言はひとつためしになん有ける。かしこには、音韻をたふとみて声をとゝのへうたふとや。こゝには言を述へ約めつゝして、しらべをゆたけくうたひしものそ。さるから、からふみにも哥にも、同し冠よそひして言をあやなせし。それなん世のさま人の心のゆたけきをは、かつ/\にもおほし知らるゝなりけり。(同、p20-p21)

漢文と和歌を同一的な地平から俯瞰することにより、「古言」をみる。和文を考えるときに、春満の「冠辞」論を秋成は評価する。

詞の上におきてよそひなせるをは枕言と云名、今は聞習はしゝかは、誰もしかるものに見過せるを、日本書紀の私記に発語と名付られしは心もゆかすと、さいつ人もいはれたりき。荷田の東丸の是をは冠言と云へくいはれしは、寔に古言よく学ひし人の名付おやになんおはせりき。(同、p21)

秋成における「古学」への姿勢。単に「古」を絶対視するわけではなく、「うつれるさま」を知り、「今にいたる」ことの意味を考えながら、学ぶべきことを強調。

いにしへの事学ぶへし。されと、今の世に捨てられし事も多かれは、いにしへを知たりとて、今にむかひて誇るはあちきなし。今の事のみを学ひて、いにしへはしらすともよしと云もあちきなし。翁も眼たにあらは、いにしへの書を読て、さて嗣々の代のうつれるさまを知つゝ、今にいたるへくおほえ侍れ。さてなん、おほやけなる物識人とは云へき。この哥もかくの如くなるへし。(同、p25)

【まとめにかえて】
 荷田春満の思想よりも、むしろ周辺に関する言説を取り上げてみた。おもに歌をめぐる議論を見てきたが、報告者の専門でもあるため、やや偏りがあることは否めないし、散漫な報告にはなったが、今後に生かせるようなものとなれば、幸いである。


【参考文献】
三宅清『荷田春満の古典学』私家版、1980年。
原田常生「創学校啓の研究―成立と奉上―」、『神道史研究』22巻1号、1974年。
松本久史『荷田春満国学神道史』弘文堂、2005年。
城崎陽子『近世国学万葉集研究』おうふう、2009年。

(文責:岩根卓史)